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龍と呼ばれる男は、
その日、前に出ていた。
◆
本隊から、
やや離れた丘の上。
龍は、
手勢を少しだけ連れて
地平を眺めていた。
(都の匂いが変わった)
(魔王が動き、
総本山が牙を抜かれたあたりから)
(風の流れが、
昔のそれではなくなっている)
「……そろそろ、
どこかの誰かが鼻を利かせてくる頃よ」
呟いたところで、
前方に土煙が上がった。
十にも満たない馬影。
旗は翻していない。
しかし、
ただの野武士の動きではなかった。
「先触れにしては、
肝の据わった」
龍は、
自ら馬腹を蹴った。
◆
距離が詰まる。
先頭のひとり。
背に異様な長さの刃。
腰にも太刀。
風に流れる髪。
(女……?)
最初の違和感。
次に鼻が気づく。
血と鉄と汗ではない匂い。
……桃。
(妙な女だ)
(妙な匂いだ)
思っている間に、
地面が震えた。
◆
さくらは、
龍を一目で見分けた。
(前に出てくる将)
(周りよりも、
空気が一段濃い)
馬上での姿勢。
手綱を握る手。
腰の刀の収まり。
全てが「戦場の顔」をしている。
(この方が、龍)
(軍神と呼ばれる男)
一度、深く息を吸う。
桃の匂いが、
自分の内側からもれ出して
風に混じっていく。
(……一合だけ)
(刃の重さを見る)
さくらは、
馬を降りた。
地に足をつけ、
大太刀ではなく太刀に手を添える。
龍は、
その様子に思わず目を細めた。
(馬を捨てるか)
(こちらは、あえて馬上のまま)
(互いの得手を一つずつ外した先で、
どこまで届くか)
おもしろい、と
心のどこかで思った。
◆
「名を訊いてもよいか」
馬上から、龍が声をかける。
さくらは、
真っ直ぐその目を見る。
「さくらと申します」
「殿の刃として
働いております」
龍は、
すぐに「ああ」と頷く。
「鬼娘か」
噂だけは聞いていた。
長い黒髪。
女の匂い。
大太刀を振るう異形の剛力。
(なるほど)
(噂話というものも、
たまには当たるらしい)
龍は刀を抜いた。
軽く一度、胸の前で振る。
「一合でよいか」
さくらは頷く。
「一合だけ」
「首を取り合うつもりはありません」
「刃を確かめるだけ」
「ふむ……」
龍は口の端を上げた。
「戦の前に、
立ち会いを求めに来るとは」
「武芸者の世ではなくなったというのに、
まだそういう香りのする者がいるか」
◆
風が止んだ瞬間、
龍が動いた。
馬上からの一閃。
しなりのある軌道。
重さと速さが
ぴたりと揃った、美しい太刀筋。
「……」
さくらは、
それを見て少しだけ感嘆した。
(これは、
確かに軍神と呼ばれる剣)
(人の上に立つほどの者が
“戦ができる”と信じられる剣)
受ける。
足を半歩だけ下げ、
腰を沈め、
太刀の峰で
その刃を受け止める。
金属が鳴った。
重さが伝わる。
龍の腕の力。
馬の重み。
勢い。
全てを、
手首と肩で受けて――
さらに上から押し返した。
「……っ」
龍の視界が揺れる。
受け止められた、ではない。
「吸われて、返された」。
自分の一閃が、
馬ごと己の身体を
後ろへと弾き飛ばす形になる。
前脚が浮き、
蹄が空を掻く。
重心が、
明らかに後ろへ持っていかれた。
(馬ごと……?)
(これほどの剛力が――)
咄嗟に手綱を引き、
落馬だけは免れる。
それでも、
土を二、三歩ほど
大きく蹴ってしまっていた。
◆
足が地を踏み直したとき、
龍は息をついて笑っていた。
「やられた」
「ここまで“まとも”に受けられたのは、
久方ぶりよ」
馬上から見下ろす形のまま、
さくらを見据える。
さくらは太刀を下げ、
軽く構えを解いていた。
「……ありがとうございます」
「私も、
軍神と呼ばれる方の刃を
この身で感じられて光栄です」
龍は、
肩で笑いながら首を振る。
「おぬしと」
「おぬしとまともにやり合うことにならなくて……」
そこで少し言葉を切り、
心からの声音で続けた。
「……ならなくて良かった」
「正面から三合も打ち合えば、
こちらの軍も骨ごと折られる」
「龍だの軍神だのと
持ち上げられてきた身としては、
少々面目ないがな」
その言い方に、
慰めも虚勢もなかった。
ただ、
自分の負け筋を
正しく見て笑っている男の声だった。
◆
さくらは、
その正直さに
少しだけ頷いた。
(この方は、
戦が好きな人ではある)
(けれど、
勝ち負けよりも
“戦の形”をよく見ている)
(殿と似ているところもあり、
違うところもある)
「一合の約束でしたので」
さくらは太刀を鞘に収めた。
「これ以上は、
殿と龍様の間で
お決めください」
龍は、
目を細めて彼女を見た。
「魔王の下に、
良い鬼を置いたものだ」
「……おぬしとは、もっと…」
「いや、詮無きことか。
打ちあえて良かったぞ、さくら殿」
そう言って、
龍は馬の首を返した。
土を蹴る音が遠ざかる。
さくらは、
静かにその背中を見送った。
(“まともにやり合わなくて良かった”)
(こちらも同じ思いです)
(あの重さは、
殿の刃とぶつけるべき重さ)
胸の内で
そう呟きながら、
彼女はゆっくりと踵を返した。




