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軍の列が北東へ伸びていく途中で、
一度だけ大きな野営が敷かれた。
その夜、評定の幕舎の中で、
空気がはっきり割れた。
◆
地図の上に、龍の進路が引かれている。
重臣筆頭の男――
殿から北の一帯を任された男が、
太い指で線をなぞった。
「ここで受けて、正面から叩き潰すべきです」
低く、揺るがない声。
「龍が軍神と呼ばれるならば、
こちらも“魔王の刃”らしく
堂々と正面からぶつかるが道理」
「この戦で腰が引けたとあっては、
殿の名折れにございます」
幕舎の中の武将たちが、
うなずく者、黙る者、
それぞれの顔をしている。
猿は、
扇子をくるくるともて遊んでいた。
「某は、そうは思わぬので」
あくまで軽い調子で。
「龍殿は、これまで一度も負けていない」
「虎とも互角」
「そういう手合いを、
“正面からぶつかって倒せる”と
本気でお思いですか」
重臣筆頭の目が
じろりと猿を向く。
「逃げ腰と言われたいのか」
「いいえ、違います」
猿は笑って、
扇子で地図の別の場所を叩く。
「龍殿は都を目指しておられる」
「ならば、
その道すがら、
幾度も袖を引き、
裾を踏み、
食い物と兵糧だけを盗っていけばよい」
「“勝ちも負けもない戦”を
何度も味わってもらうのです」
「そうしてから、
殿にお預けすべきです」
「それまでに龍殿が折れれば、
それはそれでよし」
幕舎の中が
微かにざわつく。
重臣筆頭は、
はっきりと顔をしかめた。
「卑怯だ」
「正面から軍神と呼ばれる男を破ったからこそ、
殿の名が立つ」
「ちまちまと袖を引くなど、
武家のすることではない」
猿は肩をすくめる。
「武家の世は、
そろそろ終わりかけております」
「次に残るのは、
“勝った方の書きつけ”だけです」
「そこに“どう勝ったか”まで
丁寧に書いてくれる者が
いるとよろしいのですが」
皮肉が、
静かに幕舎に落ちた。
◆
しばしの沈黙ののち、
重臣筆頭が言い切る。
「この軍の主は、私だ」
「殿より北の一帯を預かっている」
「猿殿の意見は、あくまで一説」
「ここは正面から、
堂々と受けて立つ」
猿は、
扇子をぱちんと閉じた。
その音だけが妙に大きく響く。
「……方針が合わぬようで」
軽い口調のまま、
目だけが冷えていた。
「同じ戦場で、
別々の戦を書いていては」
「どちらの軍も
中途半端に死ぬことになります」
重臣筆頭の眉が動く。
「何が言いたい」
猿は、
ひらりと頭を下げた。
「この戦、某は引かせていただきます」
「殿から頂いた兵を
無駄に散らしたくはない」
「正面から龍殿とぶつかりたいのなら、
その名誉は
北の大将お一人で
お取りくださいませ」
幕舎の中が
凍りついたようになった。
◆
野営地を出る支度は、
意外なほど静かに進んだ。
猿の軍勢は、
太鼓も鳴らさず、
旗もあまり振らず、
薄暗い夜明けに紛れるように
ゆっくりと列を反転させる。
「本気で戻るのですか」
さくらは、
馬を並べて問うた。
猿は笑う。
「本気で戻りますとも」
「殿に、
“龍殿は正面を好む”と
報告せねばなりませんからな」
「某がここで半端に付き合えば、
戦の形が分かりにくくなる」
さくらは黙り、
少しだけ前を見つめたあと
口を開いた。
「……一つだけ、
お願いがあります」
「おや、鬼娘殿が“お願い”など」
猿が目を細める。
さくらは、
真正面から猿を見た。
「一合だけ」
「ただ一度で構いません」
「龍と、
相まみえてみたいのです」
馬の蹄の音だけが続く。
猿はしばらく黙り、
やがて扇子で自分の額を軽く叩いた。
「一合だけ、とは」
「首を取りに行くという話では
なさそうですが」
さくらは頷く。
「首はいりません」
「ただ、
あの男がどんな“重さ”を持っているのか」
「どれほどの“速さ”で刃を振るうのか」
「目で見て、
肩で受けて、
鼻で嗅いでみたい」
言葉にしてみて、
自分でも少し笑えてくる。
(鬼の言うことではありませんね)
(まるで、
武芸者が見知らぬ達人に
手合わせを乞うているようだ)
猿は、
その笑いまで見ていた。
「……一合で済むとは
限りませぬよ」
「龍殿が、
“もっと打ち合いたい”と
仰るかもしれない」
「そのときは、
某の目論見など
簡単に崩れます」
さくらは首を振る。
「そのときは、
私が断ります」
「それで龍殿に背中を斬られるなら、
それまでの女だったということです」
真正面の言い方だった。
猿は、
扇子の先で空を指す。
「……殿に叱られますぞ」
「“勝手な真似をするな”と」
「猿殿も、
殿に黙って戻ろうとしているではありませんか」
さくらがそう言うと、
猿は声を立てて笑った。
「言い返されましたなあ」
◆
笑いが落ち着いたあと、
猿の声は少しだけ低くなった。
「よろしい」
「ならば、一合だけ」
「ただし――」
「軍は連れて行かないこと」
「鬼娘殿と、
ごくわずかな供回りだけ」
「龍殿の鼻先に
こちらの匂いを少し嗅がせて帰る」
「それくらいなら、
殿にも“報せ”として
許していただけましょう」
さくらは深く頭を下げた。
「感謝いたします」
「礼なら、
龍殿に申してください」
猿は、
ふっと目を細める。
「某も、“軍神”というものを」
「鬼娘殿の目と鼻と耳を通じて
見てみたいだけです」
「帰ってきたら、
全部聞かせてください」
◆
やがて、
猿の本隊から
小さな一団が離れていく。
さくらと、
選ばれたわずかな騎馬と足軽。
道は同じく右上へ。
ただし、
もう大軍の影はない。
(龍の先遣とぶつかるくらいが
ちょうど良いのですが)
さくらは、
胸の奥で静かに息を整えた。
(正面決戦を望む軍と、
守りながらかき乱そうとする軍)
(そのどちらとも違う場所で)
(一度だけ――
龍と刃を合わせる)
戦国の世は、
まだ終わらない。
終わらないからこそ、
魔王と軍神と鬼のあいだで
「一合だけ」の重さが
試されようとしていた。




