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8.一刀両断

――斥候が消えていった方向を、

山の稜線が静かに抱え込んでいる。


その沈黙は、

やがて来る暴力を孕んだ沈黙だった。


村の空気が変わる。


焚き木の煙も、

井戸の桶音も、

どこか震えている。


風の匂いが変わった。


若侍がそれに気づいた瞬間、

背筋がひやりとする。


(来る……)


だが、

さくらは石垣の縁に座したまま

動かない。


村人たちは柵の修繕に走り、

侍たちは馬の腹帯を締め直す。


ざわめき、

混乱、

焦り――


そのどれも、

“戦の前”には必ず現れる音だ。


さくらはそれを聞き流しながら、

戸口から覗く幼子と目が合う。


怯えでもない。


期待とも違う。


何かを掴みに来ている目だった。


その瞬間、

風が変わる。


山の向こうから

太鼓がひとつ鳴った。


間を置かず、

二つ目。


そして、

第三の音。


敵軍が動いたのだ。


若侍は息を呑んだ。


(こんなに……

音が重いのか……)


戦は叫びで始まらない。

音で始まる。


その音が村の空気を圧し潰す。


だがさくらの表情だけは

揺れない。


「……静かに」


声は小さいが、

風より強く届いた。


侍たちが動きを止める。

村人たちも、

その声に吸い寄せられるように耳を傾けた。


さくらは立つ。


その動作一つで、

村人の肩が下がる。


恐怖が退いたのではない。


方向が定まったのだ。


(この人がいる)


その実感が、

足元の揺れを押さえつけた。


遠方で太鼓が続く。

同じリズムが繰り返され、

軍の歩みを告げる。


若侍は、

その音を聞きながら

胸の奥が冷えたのか、

熱くなったのか分からなくなる。


(ここから先は、戻れない)


さくらは馬の首筋を軽く撫で、

その鬣の奥に指を沈めた。


匂いが風に乗る。

村の入口に向かって流れる。


敵が近い。


その匂いが、

敵の鼻にも届くだろう。


それでいい。


それがこの身の旗印。


さくらは刀の柄に軽く触れ、

内心で呟いた。


(……紅花を咲かせる準備だけは、できている)


太鼓の音が

村の心臓に響く。


戦はまだ始まらない。


だが誰もが、

始まると知っていた。


それが

“戦の幕が上がる前の、

最も静かで怖い時間”だった。


---


――まず聞こえたのは、

足音ではなかった。


風の乱れ。


土と鉄が擦れる前に、

空気が緊張する。


次の瞬間、

村の入り口の柵が揺れ、

敵兵の先鋒が姿を現した。


鎧を着ているが、

足取りは粗暴で軽率。


「女か――」


その言葉が最後だった。


さくらは前へ出た。


動きは静か。

風と同じ速度。

だが、人の目で捉える速度ではない。


刀を抜く瞬間――

金属音が鳴らない。


抜き際の音すら、

戦の空気に吸い込まれた。


敵兵が振り下ろす刃。

迷いもない。

力任せの一撃。


衝突。


…しなかった。


さくらの刀が、

ただ一条の線として走った。


敵の刀身が、

一瞬だけ硬く抵抗したが――

そのまま、

刀ごと、身体ごと裂けた。


甲冑の板が花弁のように開き、

肉と鉄と皮膚が

一つの切断面で分かたれる。


声は出なかった。

破られた身体から出たのは、

熱い呼気と赤い霧だけ。


その兵は、

自分が死んだことすら理解できないまま

崩れた。


その刹那、

後続が息を止める。


(な……何を――)


風が甘くなる。


桃の香り。

血の鉄臭と混じり、

戦場には似つかわしくないほど

柔らかい匂いが立った。


若侍の喉が乾く。

村の人々が目を見開く。


敵兵は一瞬、

その香りに意識を奪われた。


その隙が命を奪う。


二人目が突進する。

三人目も声を上げて続いた。


さくらは踏み込みを変えない。

刀の角度もほぼ同じ。


ただ――

振り抜く速度が違った。


一太刀。

二人が倒れた。


骨格が外れ、

身体が崩れる音が乾いた地面に響いた。


さくらの刀には

わずかに紅い線が残り、

陽光で乾いていく。


戦いというより、

剪定。


若侍は震えた。


(これが……戦うということか?

いや、これは――

人の“在り方”が違う)


さくらは次の敵の群れを見つけ、

わずかに刀を傾けた。


その姿が、

村人の目には

風が形を取っているように映った。


敵軍の先頭が怯んだ。


「ひ、退け!」


だが、

命令の声が届いた頃には、

もう切り伏せられていた。


その太刀筋は、

憤怒でも凶暴でもない。


ただ淡々と――

起こった戦を

一つ一つ処理するだけの動き。


紅花が、

地面に散っていく。


敵兵の血が、

村の土に染み込む。


風が甘い匂いを運ぶ。


それを吸い込んだ若侍は

悟った。


(この人は――

戦を“生業”にしているんじゃない。

戦が、この人の呼吸なんだ)


敵軍は、

その数の力で押し寄せているはずだった。


だが今、

その勢勢は

ただの恐怖に変わり始めていた。


“一太刀で刀ごと切られる”という

理解不能な現実の前に。


そして――

この初手は、

戦の様相を根底から変える。

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