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地図でいえば、東北と北の、あいだのどこか。
そこから、龍が来るという噂だった。
◆
「戦国最強」「無敗の龍」「軍神」。
ひとつひとつの呼び名が、
酒場と兵舎と寺子屋で
勝手に肉をつけてふくらんでいく。
「虎にも、一度も負けていないらしいぞ」
「だったら、殿とぶつかったらどうなる」
「魔王と軍神じゃ、どっちが上だ」
誰も見たことのない戦を、
好き勝手に語り合う。
さくらは、
評定の間の隅で
その噂話を静かに聞いていた。
(龍)
(虎にも負けぬ男)
(戦の神、軍神)
言葉だけ聞けば、
確かに殿と似ている。
ただ、
殿は「魔王」と呼ばれながらも
自分で土を踏み、
失敗も汚れも引き受けてきた男だ。
(龍は、
どんな土を踏んで来たのでしょう)
(どんな血を見て、
どんな夜を越えて、
軍神と呼ばれるまでに至ったのか)
想像はできる。
ただ、まだ匂いが分からない。
◆
殿は、
噂に振り回される様子はなかった。
ただ地図の右上を見て言った。
「来るなら、
迎え撃つだけだ」
「龍であろうと、
軍神であろうと」
「戦場に立つ以上は
人に過ぎん」
評定で決まったのは、
二つの矢だった。
・猿の上に領地を授かった、重臣筆頭の男
――北を預かる大きな槍として
・猿
――柔らかく曲がりながら噛みつく手として
二手で龍を迎え撃つ。
「殿直々の総大将ではないのですか」
さくらがあとで問うと、
猿は肩をすくめて笑った。
「殿がご自分で動けば、
右上だけで済みませぬ」
「龍の動き次第では、
南も西も揺れる」
「だからこそ、
“重臣筆頭”と“某”の二本で
先に当たっておくのです」
「龍の牙の形を見て、
殿に渡す絵を用意する」
それは、
「自分が負けても構わない」と
言っているに等しい言葉だった。
さくらは、
その軽さの裏にある覚悟を
うっすらと感じ取っていた。
◆
出陣の日。
猿の城の前に、兵が並んだ。
北を預かる重臣の城からも、
別の列が出ているはずだ。
「龍を討ち取る」
誰も軽々しくは言わない。
(虎にさえ負けたことのない男)
(こちらの“魔王”と
同じ高さの呼び名を
与えられた男)
その牙の長さも、
刃の重さも分からない。
分かっているのは、
「都を目指している」という一点だけだ。
(都を目指す者を、
今さら見逃すわけにはいかない)
(将軍様の城も、
総本山の伽藍も)
(全部通ってきてしまった以上、
ここでだけ“見なかったふり”はできない)
さくらは、
猿の軍の列の中にいた。
大太刀を背に、太刀を腰に、
桃の匂いを薄くまといながら。
猿が前で馬を回し、
兵たちに声をかける。
「龍を斬りに行くわけではありませぬ」
「“龍がどう動くか”を見に行くのです」
「軍神と呼ばれる男が、
どんな土を踏み、
どんな夜を越えてきたか」
「この目で、耳で、
鼻で確かめてきましょう」
さくらの視線が、
それに合わせて前を向く。
(龍の匂い)
(戦場で嗅ぐ火薬と血と汗の中に、
きっと混じる何か)
(それを感じ取れれば、
殿の刃として
次に何を斬るべきかも見えてくる)
◆
軍が北東へ向かう道は、
まだ静かだった。
村々では、
龍の噂と魔王の噂が
同じ口から出ていた。
「龍様が来て戦が終わる」
「魔王様が来て乱が収まる」
どちらの名も、
救いと恐怖を
同じだけ抱えている。
さくらは、
その二つの名前が
ひとつの村の空に
同時に浮かんでいるのを見ていた。
(この世はまだ、
“天”の形を決めきれていません)
(帝もいて、魔王もいて、軍神もいて)
(寺の鐘も鳴る)
(その上に、
人の噂が好きなように
名前を載せている)
(龍の戦は、
その最後の揺れの一つなのでしょう)
猿の馬が、
さくらの横に並んだ。
「鬼娘殿」
「はい」
「龍に会ったら、
どうされます?」
さくらは少し考え、
素直に答える。
「刃を交える前に、
目を見ます」
「戦が好きな人なのか、
戦に追われ続けてきた人なのか」
「それを見るだけで、
刃の向け方が変わります」
猿は扇子をたたき、笑った。
「某も同じですな」
「ただ、
某は目より先に“算盤”を出してしまう」
「龍と殿、
どちらが長く生き残った方が
この国が静かになるか」
「それを考えてしまう」
「……今のところ、
どちらだと思われますか」
さくらが問うと、
猿は空を見上げた。
「まだ、分かりませぬ」
「だからこそ、
迎えに出ているのでしょう」
「確かめるために」
◆
兵の列は、
右上の空の下へ伸びていく。
龍の軍も、
どこかで同じように
土を踏みながら都を目指している。
魔王と軍神が
直接刃を交えるのか。
それとも、
その手前で別の形が見えるのか。
今はまだ、
誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――
さくらは再び前線に立ち、
桃の匂いをまとった大太刀で
新しい「天の形」を試される場所へ
向かいつつある、ということだった。




