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帝の御前は、

不自然なほど静かだった。



殿、総本山の使節、

そしてその少し後ろに控えるさくらと猿。


そのさらに高いところに、

白い衣をまとった帝が座していた。


金も宝石も、

ほとんどない部屋だ。


畳と柱と、

わずかな香の匂い。


戦も、鉄砲も、火薬も――

ここには何ひとつない。


 


文官が、

淡々と取り決めを読み上げていく。


> 総本山は、

湾の突端にある本拠の地を明け渡すこと。




> その地は、

以後、殿の支配する国の一部とすること。




> 殿は、

今後総本山およびその末寺に対し、

兵を向けぬこと。




> 双方とも、

帝の御前で交わしたこの約定を破ったならば、

「帝の裁定」に背いた者として

民の信を失うこと。




 


読み上げる声は乾いているのに、

言葉の中身だけが重く落ちていく。


(本拠を譲る)


(刃を収める)


(帝を“秤”として受け入れる)


どれも、

総本山にとっては

僧としての誇りと

「武の親分」としての顔の両方を

削る約定だ。


それでも、

高僧は頷いた。


「……この身、この寺とも」


「帝の裁定に従い、

 刀を納めましょう」


声はかすれていたが、

逃げる響きではなかった。


殿もまた、

ゆっくりと頭を垂れる。


「我らも、

 帝の御前で約したとおり」


「今後、総本山を攻めぬ」


「もしこの約定を破るならば――

 魔王ではなく、“逆賊”と

 民に呼ばれても仕方ない」


一言一言が、

自らの背に縄をかけるような言い方だった。



さくらは、

そのやりとりを少し後ろから見つめていた。


(総本山は、

 本拠を差し出し)


(殿は、

 刃を差し出す)


(帝の御前という

 “天の下”で)


頭では、

筋が通っていると分かる。


(あの湾の先端の城は、

 何十年かかっても落ちない)


(ならば、

 中身を抜いて

 殿の国の一部にする)


(総本山は、

 武の牙を抜かれた代わりに)


(僧としての顔を

 どうにか残せる)


(殿は、

 寺に二度と刃を向けないと約することで)


(魔王から“天主”へ

 一歩近づく)


それでも、

胸のどこかで

何かがきしむ。


(寺を焼いた夜の火も)


(将軍様の城の静けさも)


(悪名高き男の爆ぜる笑いも)


(全部まとめて、

 この部屋の一言に

 閉じ込めてしまうのですね)


 


帝は、

それまで一言も発していなかった。


ただ座し、

ただ聞き、

ただ「そこに在る」。


殿も、総本山も、

その沈黙へ向かって

自分から縄をかけたに過ぎない。



文が読み上げ終わり、

座の上の空気が

薄く揺れた。


帝が、

わずかに顔を上げる。


目は誰も見ていないようで、

ここにいる誰もを

一度に見ているようでもあった。


長い沈黙のあと――

唇が、ごくわずかに動く。


「……許す」


それだけ。


 


殿にも、総本山にも、

誰一人の名も出さない。


今までの罪を、

これからの争いを、

全部ひとまとめにして

「……許す」とだけ置いていく。


それは、

赦免の言葉というより、

天からの「印」のようだった。


(帝が、“今まで”と“これから”を

 まとめてひとつの袋に入れて縛った)


(この中から

 もう一度刀を振り上げる者は)


(今度こそ

 天そのものに背くことになる)


さくらは、

その一言でようやく

胸のどこかの棘が一本抜けるのを感じた。


寺を焼いた夜、

将軍の前で刃を抜かなかった朝、

湾の向こうに見えた巨大な伽藍。


すべてが、

この「……許す」の中へ

押し込められていく。


心地よいとは言えない。

それでも、

確かに一つの区切りだった。



御前を辞したあと、

廊下で猿が小さく息を吐いた。


「……短いものですな」


「何もかも、

 “許す”の一言で」


さくらは、

廊下の先の光を見ながら答えた。


「殿は、

 たくさんの言葉で筋を通そうとして」


「総本山は、

 たくさんの言い訳で

 自分を守ろうとして」


「帝は、一言で

 全部の上に蓋をしました」


猿は扇子で口元を隠し、笑う。


「鬼娘殿の方が、

 よほど言葉に厳しい」


「某など、

 “短くて助かった”と

 思っておりましたのに」


 


さくらは、

ふっと息を漏らした。


「……正直を言えば」


「“許す”と言っていただけたことが

 少し、救いです」


猿が珍しく真面目な顔になる。


「寺を焼いた夜から?」


「将軍様の城の前から?」


さくらは頷いた。


「あの火も、

 あの白壁も」


「殿の名も、

 私の刃も」


「全部、

 あの一言の中に入れていただけた気がします」


「勝手な思いかもしれませんが」


猿は、

その言葉をしばらく胸の中で転がしていた。


「……鬼も、

 許されたわけですな」


「帝の言葉の中で」


さくらは少し笑った。


「鬼のまま、

 許されました」


「殿の刃であることも、

 魔王のもとにいることも」


「全部込めたうえで」


 


そう言って、

彼女は軽く背中の大太刀に触れる。


刃は鈍っていない。

しかし、

向ける先は変わろうとしている。



後日。


湾の突端にあった巨大な伽藍は、

いくつかの塔と堂を残して

静かに姿を変えつつあった。


高い土塁は削られ、

鉄砲の台は壊され、

一部は寺として、

一部は城として、

一部は町として

殿の国の中へ組み入れられていく。


総本山は、

別の場所に本拠を移した。


今度は山の奥。

戦場から遠く離れた小さな盆地。


「祈るための場所」としては

むしろふさわしい場所かもしれない。


寺は残る。

鐘も鳴る。

ただ、

湾に突き出した巨大な“牙”だけが

静かに抜かれた。


 


天主閣から眺めると、

かつて総本山があった湾は

ただの水面に見える。


(あそこはもう)


(殿の国の一部)


(そして、

 帝の「……許す」の内側)


さくらは、

風の中で目を細めた。


(敵は、

 ひとつずつ形を変えています)


(寺は寺に、

 城は城に)


(殿も魔王から、

 いつか別の名で呼ばれるようになるのでしょうか)


自分はどうか。


鬼娘と呼ばれ、

刃を振るい続けてきたこの身は。


(鬼は鬼のまま)


(……それでいい)


帝が許したのは、

清らかな者たちだけではない。


魔王も、

総本山も、

鬼も。


そのすべてをまとめて

「……許す」とだけ言った。


ならば――

自分もまた、

鬼のまま背負っていけばいい。


焼けた寺の夜も、

血に濡れた戦場も、

桃の匂いに包まれた静かな夜も。


全部ひっくるめて、

この先の世の「静けさ」のための

重しになるのなら。


さくらは、

大太刀の柄を静かに握り直した。

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