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帝からの、細い一本の線が引かれた。
◆
都の奥。
幾重にも重ねた襖の向こう、
帝はただ静かに座していた。
文を読むのは側近たち。
声に出すのも、
筆を取るのも。
帝自身は、
ただそこで「在る」だけだ。
> 「天下静謐のため、
魔王と総本山、
共に刀を置き、
帝の御前にて言葉を交わすべし」
そう書かれた勅書が、
墨の香りとともに乾いていく。
帝は何も言わない。
ただ、
わずかに瞼を伏せた。
(これで、
天が一つぶん揺れる)
それが、
都の一番奥で起きた
ささやかな出来事だった。
◆
勅使の行列が
都を出た。
金銀の飾りも少なく、
華やかさというより
「格式」だけをまとった一団。
彼らは、
魔王の天主閣を横目に見ながら
総本山のある湾へ向かう。
天主閣の上から、
殿とさくらが
それを見下ろしていた。
「帝の文は、
わしも断れぬ」
殿がぽつりと言う。
「総本山も、
断ることはできる」
「ただし──
断ったことの“重さ”は背負わねばならぬ」
さくらは、
その言葉の意味を反芻する。
(帝というのは、
刀も軍も持たずに)
(それでも、
“断った”という事実だけで
人の心に重さを残せる存在なのですね)
(…殿とは、
まるで逆です)
殿は自ら刀を振るい、
焼き、
壊し、
形を変えてきた。
帝は何もせず、
ただ座しているだけで
秤の針を動かす。
(その二つを、
今同じ座に並べようとしている)
(魔王と帝と、総本山)
皮肉でもあり、
どこか救いのようでもあった。
◆
総本山。
湾を渡る風に乗って、
勅使の行列が見えた。
山門の上から、
僧兵たちが目を細める。
「帝の使いか」
「ここまで来たということは、
魔王の背も
あの天主閣の背も
同じ方向を向いているということだ」
高僧たちが集う堂で、
報告がなされる。
「帝の勅書、
到来」
「魔王と我ら、
共に刀を置き
御前に出よとのこと」
沈黙が、
長く続いた。
「……断るわけにはいかぬ」
誰かが言う。
「帝を“上”と仰いできたのは
我らも同じだ」
「帝の御前に出ぬ寺など、
自ら“天から外れる”と言うに等しい」
別の僧が返す。
「だが、
帝の座に魔王を並べることは」
「それは、
“仏の上に武の天を置く”ことだ」
「そんな座に
わしらが座るのは、
教えそのものの敗北ではないのか」
言葉が、
あちらこちらでぶつかる。
◆
ちょうどその頃、
別の場所では
さくらが傭兵団と対峙していた。
総本山から金を受け取った鉄砲傭兵たち。
地方の小競り合いに顔を出し、
「総本山の威光」を旗に掲げている。
「……また来たか」
「鬼娘だ」
噂はすでに回っていた。
鉄砲の構えが、
目に見えて鈍い。
さくらは、
その中を駆け抜けた。
鉄砲の筒を叩き折り、
撃鉄を砕き、
膝と肩を叩いて
二度と引き金を引けぬ腕にする。
斬るのではなく、
「折る」。
悲鳴と罵声とともに、
傭兵たちの心に
たった一つの言葉だけが刻まれる。
「総本山の銭で戦場に出ると、
鬼娘に腕を折られる」
「稼げなくなる」
命よりも、
稼ぎを惜しむ者たちにとって
それは何よりも重い罰だった。
◆
その噂と、
帝の勅書が
同じ時期に総本山へ押し寄せる。
一方では、
帝の名。
一方では、
鬼娘の名。
高僧たちのあいだで、
天秤が揺れ始めていた。
「帝の座に出れば、
魔王と同じ土俵に乗ることになる」
「出なければ、
帝からも民からも
背を向けたことになる」
「傭兵も集まりにくくなっている」
「献金も、
以前ほどではない」
「このまま“城”として振る舞えば、
いずれ魔王の刃に
じわじわと削られていく」
「僧として、
どこで線を引くべきか」
仏の前で交わされる議論は、
もう祈りだけでは終わらなかった。
◆
天主閣。
夜。
湖からの風が高い窓を揺らしている。
さくらは、
殿と猿、天才軍師と共に
灯りの下で地図を囲んでいた。
「総本山からの返事は?」
さくらが問う。
文官が答える。
「沈黙です」
「勅使は山門の外で
すでに三日、座したまま」
「門は開かれもせず、
追い返されもせず」
猿が苦笑する。
「出もせず、
下がらせもせず」
「……一番、
困らせる返事ですな」
殿は、
少しだけ目を細めた。
「門の中では、
まだ秤を揺らし続けているのだろう」
「ならば、
こちらが揺らす分を増やすだけだ」
さくらに視線が向けられる。
「鬼」
「はい」
「次は、
総本山に献金を送っている大寺のうち
“武を持つ寺”だけを狙え」
「寺そのものではなく、
“総本山の兵舎”として
振る舞っている場所を」
さくらは、
短く息を吸った。
(また寺)
(……でも、
あの夜とは違う)
(殿も、
私も)
(“どこを寺と見なして、
どこを城と見なすか”を
以前よりも慎重に考えている)
「承知しました」
「刀を置くべき寺と、
刀を向けるべき寺を
見極めます」
「できる限り」
殿は頷く。
「“できる限り”でよい」
「鬼がそれを言えるうちは、
まだこの国に人の顔が残る」
その言葉は、
さくらの胸のどこか深い場所に
静かに置かれた。
◆
総本山の高僧たちも、
同じ頃
別の秤の前に座っていた。
帝の名を記した勅書。
魔王と鬼娘の噂。
献金の額。
傭兵の数。
地方から届く、寺々の悲鳴と嘆願。
「帝の座に出るのは、
屈服か」
「それとも、
“僧としての本分”に戻る道か」
若い僧が、
おずおずと口を開いた。
「……今のままでは、
我らは“兵の親分”に見えております」
「帝の御前で刀を置けば」
「戦のために集めてきたものは
多く失いますが」
「代わりに、
“祈る場”としての顔だけは
残るのではないでしょうか」
年老いた僧が目を細める。
「祈るだけで
世が動くと思うか」
若い僧は、
それでも頷いた。
「少なくとも」
「魔王の刃と
鬼娘の大太刀よりは」
「祈る者の前にいる方が、
自分の跡を継ぐ僧たちに
顔向けができる気がいたします」
その言葉が、
誰の胸にどう響いたかは分からない。
ただ、
堂の中の空気が
少しだけ変わった。
◆
山門の外で、
勅使はまだ座していた。
雨も、
風も、
陽も受けながら。
三日目の暮れ。
門の内側で
かすかな音がした。
閂が上がる音。
古い木の軋む音。
さくらは、
天主閣の高い窓から
遠くの湾を見ていた。
(…動きましたね)
直接は見えない。
けれど、
長く張っていた糸が
ふっと緩む感覚があった。
魔王の城と、
総本山と、
帝の座。
三つの「天」を結ぶ線が、
ようやく
同じ場所に向かい始めた気がした。
この先、
どんな顔で刀を置くのか。
どこまでを許して、
どこまでを斬るのか。
まだ何も決まっていない。
それでも、
さくらは大太刀の柄に触れながら思う。
(ここから先の戦は、
刃を振るう前に
何度も自分の中の秤を見なければならない)
(鬼と呼ばれても)
(鬼の胸の中に
一本の秤があることを)
(殿と、帝と、
いつか誰かが
覚えていてくれればいい)
湾からの風が吹き上がり、
ほんのりと桃の匂いが
夜の天主閣に満ちた。




