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評定の間に、
静かな波紋がひろがっていった。
◆
地図の上。
総本山の黒い塊の前で、殿は扇子を畳んだまま言った。
「……あれは、おそらく」
「何十年かかっても落とせまい」
誰も反論しなかった。
土塁、石垣、伽藍。
献金の川。
海からの兵糧。
鉄砲傭兵たち。
どれか一つを折ったところで、
すぐに別の場所から補われる。
「ならば、
刃を向ける場所を変える」
殿の視線が、
地図から少しだけ上を向く。
「刀を置かせればいい」
◆
帝の名が出たとき、
空気がわずかに張り詰めた。
「……帝を、でございますか」
文官が静かに問う。
殿は頷く。
「将軍は、もう“上”ではない」
「帝は実権を持たぬが、
“この国の形”の頂きであり続けている」
「神の血を引くと
人々が信じてきた存在だ」
「その帝が仲立ちをすれば、
総本山も、
わしの軍も」
「一応は、
刃を収める座につくことができる」
天才軍師が、
扇子の先で地図の総本山を軽くつつく。
「ただし、今は無理ですな」
「兵も金も信徒も満ちている総本山が、
わざわざ“裁きを受ける席”に
自ら座りたいとは思わない」
「……向こうが、その席に座りたくなるようにしろ」
殿は、
短くそう言った。
「帝の前に出ることが、
“逃げ道”ではなく
“唯一の生き残り方”に見えるように」
「それが整わぬうちは、
いくら使者を立てても無駄だ」
◆
評定が散じたあとも、
数人だけが部屋に残った。
殿、猿、天才軍師、文官、そしてさくら。
地図の上で、黒い塊を囲む。
「……要するに」
猿が息を吐く。
「総本山にとって」
「“帝の御前で刀を置く”ことが、
“まだマシな負け方”だと
思えるところまで追い込め、という話ですな」
天才軍師はうなずき、
淡々と列挙する。
「攻め落とさずに、
外側だけを削ぐ」
「献金の道を狭める」
「傭兵を雇う金を減らす」
「鉄砲が運び込まれる港を潰す」
文官が言葉を継ぐ。
「さらに」
「“総本山に刃向かえば地獄行き”という
古い恐怖よりも」
「“魔王に刃向かえば国ごと焼かれる”という
新しい恐怖が勝るようにする」
「……世の秤を、
少しずつ傾ける必要があります」
さくらは、黙って聞いていた。
(攻め落とさずに、
座に誘う)
(斬り捨てずに、
刀を置かせる)
頭では分かる。
今までの戦とは、
使う筋肉の場所が違うのだと。
(でも、やはり
飲み込みに時間がかかりますね)
「さくら」
殿が名を呼んだ。
「はい」
「お前には、
刃の“見せ場”を任せる」
「総本山が頼みにしている鉄砲の傭兵、
その幾つかの集団を」
「“これでは稼ぎにならない”と思わせる程度に
壊してこい」
猿が、
横から補うように笑う。
「つまり、こうです」
「鉄砲を構えた男たちが」
「“鬼娘がいる戦場には近寄るな”と
自分たちで噂を広めるくらいに」
「腕を、銃を、
見事に折ってきてください」
さくらは、
静かに頷いた。
「……斬る場所は、
選べますか」
「命ではなく、
“仕事”だけを折ることは」
殿は少し考え、
うなずく。
「できる限り、そうしろ」
「二度と戦場に立てぬほどの傷は、
時に死より重い」
「総本山にとっても、
“使い物にならなくなった傭兵”が
一番の負担になる」
さくらは、
胸の中の棘が
すこしだけ動くのを感じた。
(寺を燃やし、
将軍様を退けた殿の口から)
(そういう言葉が出るたびに、
私はほっとするのです)
◆
作戦は、静かに動き始めた。
・内陸の街道で、献金を運ぶ荷駄を“優先的”に狙う山賊を潰し
代わりに殿の旗のもとで徴税を始める
・海では、
総本山ゆきの船だけを選んで検閲し、
鉄砲と火薬を見つけ次第没収する
・総本山に雇われた傭兵団が
地方の支配争いに顔を出せば、
そこへ鬼娘を差し向けて徹底的に叩き折る
「……全部、殺すわけではないのですね」
さくらは、
最初の戦いの後に気づいた。
傭兵団の首領だけを斬り、
部下たちには“逃げ道”を残す。
「二度とこの旗の下に戻ってくるな」
「総本山の銭で
二度と鉄砲を構くな」
そう言い残せば、
生き延びた傭兵たち自身が
噂を広めてくれる。
(鬼娘に出会った傭兵は、
二度と稼げなくなる)
(総本山に雇われれば、
命より先に腕を失う)
噂は
鉄砲の音より早く
各地に広がっていった。
◆
一方で、
帝のもとへは
別の線が引かれていた。
都の奥。
幾重にも重なる襖の向こう。
帝に近い公家たちの
一部が、静かに殿へと傾いていく。
・戦を終わらせたい者
・寺の力を恐れる者
・新しい秤に自分の居場所を求める者
「帝には、
“裁きの座”だけをお願いする」
殿はそう言った。
「刀を向けるのも、
刀を置くのも、
わしと総本山だ」
「帝には、
ただ“そこに座っていていただけばいい”」
文官が、
その言い方に苦笑する。
「“座しているだけの天”を
今度は殿が利用されるわけですな」
天才軍師も、
扇子の陰で微笑む。
「総本山にとっては……
“帝の御前に出ない”ことで
逆に立場を悪くする形になります」
「帝からの御使が来たのに、
刀を置かない」
「それだけで、
各地の信徒の心が
少しずつ離れていく」
猿がまとめるように言った。
「つまり、“座に着くかどうか”の戦は」
「矢でも大太刀でもなく」
「噂と献金と、
信徒たちの目で決まる」
◆
さくらにとって、
それは奇妙な戦だった。
目の前で斬り結ぶよりも前に、
戦の勝ち負けが
どこかで静かに動いていく。
(私が前に出る場面は、
どれも“見せ場”ばかり)
(傭兵を押し返し、
献金を守ろうとする兵を散らし)
(総本山の名前を掲げて
刃を振るう者たちの手を
一つずつ折っていく)
戦が終われば、
その土地には殿の代官が入る。
寺は残る。
鐘も鳴る。
ただ、
“総本山へ逆らう者を罰する力”だけが
静かに剥がされていく。
◆
総本山の内部にも、
さざ波が立ち始めていた。
献金の山が
以前ほど高くならない。
傭兵が集まりにくくなっている。
遠国の寺から届く文には、
「帝の行幸」や
「魔王の禁令」の話が
紛れ込むようになってきた。
「……帝、だと?」
高僧たちのあいだに
かすかな動揺が走る。
「帝の名を盾にして、
魔王がこちらへ干渉しようとしている」
「いや、
帝の御前を辞退したと広められれば、
わしらの“天に近い座”に
傷がつく」
「だが、
帝の御前で刀を置くというのは……」
「それは、
信徒たちの前で
自ら“下に降りた”と
認めることに他ならぬ……」
◆
さくらは、
天主閣の高い部屋から
湾の方角を見ていた。
総本山はまだ遠い。
だが、
そこから立ち上る気配は
以前と少し違っているように感じられた。
(あのとき寺を焼いた殿が)
(今は、
寺そのものを斬るのではなく)
(寺が“刀を置きたくなるように”
周りを削っている)
魔王と呼ばれる男のやり方は、
相変わらず
簡単には飲み込めない。
それでも、
さくらは少しずつ
理解し始めていた。
(殿は、
寺を全部敵に回したいわけではない)
(総本山が“乱の根”である限り、
刃を向けざるを得ないだけ)
(“刀を置いた寺”は、
きっと殿は斬らない)
その細い線を信じることが、
鬼と呼ばれる自分にとっての
拠り所だった。
◆
やがて──
帝の名を記した御使が
総本山へ向かう日が近づいてくる。
そのとき、
総本山がどんな顔で
その席を見つめるのか。
まだ誰にも、
はっきりとは見えていなかった。




