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評定の間の地図の上で、
そこだけが異様に濃かった。
◆
湖の南。
広い湾に、舌のように突き出した陸地。
その先端に、
巨大な伽藍と土塁と石垣が
幾重にも塗り重ねられている。
「……ここが、総本山」
文官が、
墨の濃い部分を扇子でなぞる。
「寺とも城とも呼び難い……
ひとつの“国”ですな」
天才軍師は、
淡々と数字を並べた。
「周囲には、
信徒の町がびっしりと張り付き」
「内陸からは献金。
湾からは船で無限に兵糧」
「攻め手は、
陸からの一方向のみ」
「しかも、
鉄砲傭兵を大量に抱えている」
「……魔王の天主閣と、
どちらが“天に近い”か」
誰かが冗談めかして言って、
誰も笑わなかった。
◆
殿は、
しばらく地図を見ていた。
湖からの風が、
紙の端をかすかに揺らす。
「周りには、もう敵はない」
ぽつり、と。
「総本山だけだ」
「……ここを残して
世が静まったと、誰が信じる」
誰も何も言えない。
寺は祈りの場であり、
乱の火種でもあった。
「寺を焼いた」と囁かれる主君が、
その最たるものへ
ようやく目を向けた瞬間だった。
◆
「総本山は、
殿の天主閣と並び立つ“天”です」
天才軍師が、
静かに続ける。
「信仰の天と、
武の天」
「殿はすでに、
将軍という“上”を退けました」
「次は──」
「“天を二つにせぬ”という話ですな」
猿が、
重く扇子を鳴らした。
「二つの天があれば、
人はどちらにも言い訳を運べる」
「“あちらの天がこう言った”、
“こちらの天がこう許した”」
「……殿は、それを嫌われる」
殿は頷く。
「天は一つでよい」
「その一つが、
私かどうかはどうでもいい」
「ただ、“二つあるふり”を
許したままにはできない」
◆
さくらは、
地図の上の黒い塊を見つめていた。
(……ここが)
(あの寺の“親”)
焼け落ちる末寺。
門前で刃を抜き、
逃げる者と武器を持つ者とを
見分けようとした夜。
(あのときよりも、
はるかに大きく)
(はるかに厚く)
(はるかに、多くの人の願いと恨みとが
折り重なっている)
頭では分かっている。
(この総本山は、
刃と鉄砲を持ち)
(献金で傭兵を雇い)
(殿を倒すための“城”になっている)
(寺を名乗っていても、
やっていることは
城と変わりません)
それでも、
寺という言葉が心に引っかかる。
(……飲み込むのに、
また時間がかかりそうですね)
自嘲めいた思いが
胸の奥で小さく転がる。
◆
「さくら」
殿が名を呼んだ。
顔を上げる。
「総本山を討つ」
「お前には、
前に立ってもらう」
さくらは一瞬だけ目を閉じ、
すぐに開く。
「命じられれば、
どこへでも」
「私は、殿の刃です」
殿は頷き、
一拍置いて言葉を重ねた。
「寺そのものを全て焼くつもりはない」
「刃を持つ者と、
火縄を握る者と、
金で乱を煽る者」
「そこだけを斬る」
「……できる限り、だが」
それは、
寺を焼いた男の言葉とは思えないほど
細く、慎重な線引きだった。
さくらは、
胸の中の棘が少しだけ丸くなるのを感じる。
「承知しました」
「刃を向ける場所を、
見極めます」
(殿が“できる限り”と言うなら)
(私も、“できる限り”の線を探す)
(鬼と呼ばれても)
(鬼の中に、
一本くらい線を持っていても
罰は当たらないでしょう)
◆
評定が終わり、
廊下に出ると猿が並んだ。
「総本山」
「難儀な相手ですな」
「猿殿にとっては、
どう見えますか」
さくらが問うと、
猿は少し首を傾げた。
「……“城”として見れば、
包囲できぬ城」
「“寺”として見れば、
止めどない信仰が
兵糧の代わりになる場所」
「“町”として見れば、
献金と商いで肥え太った
台所そのもの」
「つまり、
どこから見ても厄介ですな」
それでも、と
猿は口元だけで笑った。
「ただ一つ」
「“唯一の敵”というのは、
案外やりやすい」
「皆の目が
同じところを向いている」
「殿も、
さくら殿も、
某らも」
「それだけで、
今までよりずっと戦いやすい」
さくらは、
その言葉に小さく笑った。
(敵が一つ)
(魔王の天主閣と並んで
天に手を伸ばす、もう一つの塔)
(どちらか一つを選べと言われれば)
(私は迷わず、
こちら側に刃を置きます)
たとえ、
飲み込むのに時間がかかっても。
◆
総本山を描いた地図の上で、
墨の黒が静かに濃くなっていた。
そこに向けて、
近いうちに軍が動く。
寺とも城とも呼べぬ巨大なそれと、
魔王の天主閣。
天を挟んだ二つの形が、
ようやく真正面から
ぶつかろうとしていた。




