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城の奥の一間で、
男はひとり座っていた。
足元には、
小さな箱が二つ。
ひとつは空。
かつて、名物茶器を入れて
魔王のもとへ運ばせた箱。
もうひとつは、
まだ重みを残している。
中には、
「もう一つ」の名物茶器。
◆
外では、
太鼓の音が遠くなったり近づいたりしている。
籠城の兵が叫び、
寺から流れてきた僧兵たちが怒鳴り、
町人たちの悲鳴が
どこかで上がったり止んだりしている。
男は、
それらすべてを
障子の向こうの雑音として扱っていた。
(よくもまあ、
ここまで来たものだ)
(将軍を殺したときも、
寺と組んだときも)
(あの魔王は、
笑って茶を受け取り、
笑って許し)
(そして今、
笑いもせずに
城を囲んでいる)
箱の蓋を開ける。
わずかな光を受けて、
茶器の肌が鈍く光った。
「……お前だけは、
渡せんのだよ」
誰にともなく、
そう呟く。
◆
別の部屋では、
火薬が運ばれていた。
鉄砲用の樽。
倉に隠していた粉。
寺から流れてきた分も混じっている。
「こんなに集めて、
何を……」
若い兵が問うと、
古参の一人が肩をすくめた。
「どうせ、
あの御屋形のやることだ」
「最後に、
派手な見世物を
用意しているのさ」
誰も止めなかった。
止めるだけの信用を、
誰も持っていなかった。
◆
茶器を手に、
男は立ち上がる。
足取りは軽い。
まるで、
茶会の席に向かうかのように。
火薬を詰めた部屋は、
城の一角にあった。
柱と梁に囲まれた
密な空間。
その中央に、
小さな台が置かれている。
「ここか」
茶器をそっと台にのせる。
指先が、
一瞬だけ震えた。
(命よりも、
茶器の方が重いと
皆に言われてきたが)
(命と茶器を
一緒くたにして燃やせば)
(どちらが重かったのか、
誰にも分からなくなる)
それは彼なりの、
皮肉な筋の通し方だった。
◆
外から見れば、
ただ一つの櫓の窓から
煙が漏れ出したようにしか見えない。
中では、
火縄が静かに進んでいた。
火薬樽へ向かう線。
柱の根元へ向かう線。
梁の継ぎ目へ向かう線。
男は、
その中心に座る。
膝の前に茶器。
手は膝の上に置いたまま。
(魔王よ)
(お前に、
この茶だけは譲らん)
(お前は天下を取るだろうが、
この一服だけは
俺のものだ)
そう思って、
小さく笑う。
爆ぜる音は、
意外なほど近かった。
◆
ドン、と
腹の底に響くような音。
その一つが、
すぐに二つ、三つに連なり、
城の一角が
内側から破れるように膨らんだ。
外から見ていた兵たちは、
一瞬何が起きたか分からなかった。
「攻城兵器か?」
「いや、中から……?」
櫓の屋根が持ち上がり、
遅れて瓦が雨のように落ちてくる。
炎が吹き出し、
木と紙と人の匂いが
混じった煙があがる。
「火薬庫だ!」
「中で……爆発を……!」
誰かが叫び、
その声がかき消された。
◆
さくらは、
前へ出ようとして足を止めた。
(……今の)
まるで、
山そのものが咳をしたような
重い衝撃だった。
「さくら殿!」
猿の声が飛ぶ。
「城の一角が吹き飛びました!」
「悪名高き者、
自ら火薬に火を入れたと見て
間違いありますまい!」
煙の向こう。
崩れた櫓の残骸。
(あそこで、
終わらせたのですね)
(自分の手で)
さくらは、
大太刀の柄から手を離した。
斬る相手はもういない。
◆
火がある程度おさまってから、
中が改められた。
炭になった木と、
割れた瓦と、
黒く焦げた何か。
「……人の形も、
残っておりませぬな」
文官が、
鼻をおさえながら言う。
「ただ、
これだけは」
瓦礫の中から
ひとつだけ拾い上げられたものがあった。
茶器の破片。
肌の一部だけが、
焼けただれながらも
まだ元の光沢を僅かに残している。
天才軍師がそれを見て、
薄く笑う。
「魔王に渡した茶と、
自分で燃やした茶」
「どちらが“名物”として
長く語られますかね」
猿は肩をすくめた。
「どちらも、でしょう」
「“魔王に茶器を献じて命を繋いだ男”と」
「“最後に茶器と共に爆死した男”」
「どちらの話も、
きっと世の酒の肴になります」
さくらは、
破片には触れなかった。
ただ、
それを見て心の中で思う。
(殿は秤を求め)
(将軍様は秤を残せと言い)
(この男は、
秤の皿そのものを爆ぜさせて
逃げようとした)
(ならば……
やはり討たれるべき“重さ”だったのでしょう)
◆
後日。
都や台所の町では、
新しい噂が流れ始めていた。
「二つの茶器を持っていた男がいてな」
「ひとつは魔王に差し出して命乞いをし、
もうひとつは火薬と一緒に抱えて
自分で吹き飛んだそうな」
「命より茶を惜しんだのか、
魔王に渡すのが惜しかったのか」
「どちらにせよ、
ろくでもない終わり方だ」
笑い話にしながらも、
人々はどこかで分かっていた。
それは同時に、
「何度も裏切れば、
最後はああなる」という
分かりやすい印でもあるのだと。
◆
天主閣の一室で、
さくらはふと湖の方角を見た。
もう煙は見えない。
(寺を燃やし、
将軍様を山へ送り)
(悪名高き男は、
自分で火をつけて消えていった)
(乱の種を一つずつ
焼いたり、
山に埋めたり、
自ら爆ぜさせたり)
(殿の周りから、
少しずつ火種が減っています)
それでも、
胸の奥の重さは
簡単には軽くならない。
(私は鬼と呼ばれ)
(殿は魔王と呼ばれ)
(それでも、
この先の世が
少しでも静かになるのなら)
(この重さは、
背負っていってもいいのかもしれません)
風が吹いて、
ほんのりと桃の匂いが広がる。
それはもう、
人を惑わせるためだけの匂いではなくなりつつあった。
自分の中の迷いと覚悟を
静かに混ぜ合わせるための匂いでもあった。




