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夜営の火は、

さくらの顔だけを

ぼんやりと照らしていた。


周りでは

兵たちが小声で話し、

誰かが鍋をかき混ぜる音が

ときどき聞こえる。


さくらは、

少し離れた石に腰を下ろし、

大太刀の柄に手を置いたまま

空を見上げていた。


(……殿のすることは、

 きっと正しいのだと思います)


(乱を終わらせるために、

 総本山を縛り、

 寺を焼き、

 将軍様の城にまで槍を向ける)


(あそこまで踏み込まねば、

 この国は変わらないのでしょう)


頭では、

筋が通っていると分かる。


猿も、

軍師も、

皆そう言っていた。


(……でも)


火のはぜる音に紛れて、

胸のうちの声が

小さく続く。


(寺は、

 私にとって

 剣とあまり関わりのない場所でした)


(山道を行くときに鐘の音が聞こえたり、

 戦の前に兵たちが

 こっそり線香をあげに行ったり)


(そういうところを、

 燃やしました)


(武器を持って籠もった以上、

 敵だと分かっていても)


燃え落ちる屋根と、

門から転げ出た僧や兵の姿が

一緒くたになって思い出される。


刃を向けなかった者たちの顔も、

何人かは覚えている。


(…きっと、

 間違いではない)


(でも、“間違いではない”という言葉で

 自分の中の何かを

 すぐに納めてしまうのは、

 それもまた違う気がします)


 


(将軍様も)


(世が乱れた原因のひとつであり、

 殿の進む道を阻む柱でもあり)


(その柱を倒すのだと、

 頭では分かっています)


(けれど、

 私が幼いころから聞いてきた「将軍様」は、

 もっと遠くて、

 もっと“触れてはいけないもの”でした)


(その城へ、

 こうして刃を持って向かっている自分が

 ときどき他人のように思えます)


 


火に当てられて、

鎧の中がじんわりと熱くなっていく。


さくらは、

胸元の紐をひとつだけゆるめた。


桃のような匂いが

少しだけ自分の周りに満ちる。


(戦のとき、

 この匂いは

 人を惑わすためのものになりました)


(城を攻めるときも、

 寺の門に立つときも)


(でも、本当は……

 こんなふうに

 自分の呼吸を落ち着かせるために

 使ってもいいはずです)


深く息を吸い、

ゆっくり吐く。


(殿を疑っているわけではないのです)


(ただ、

 “正しい”と分かることと、

 “飲み込める”ことの間に)


(少し、時間がいるだけ)


すぐに飲み込んでしまえるほど

自分が軽くはないのだと、

さくらはようやく気づき始めていた。


 


(寺を焼き、

 将軍様の城を攻める)


(ここから先、

 私は何度も「今までの形」を

 自分の手で壊す役を

 任されるのでしょう)


(それでも殿に仕えると決めたのは、

 他の誰よりも

 “戦の先の世”を考えているお方だと

 感じたから)


(……だから)


(刃は鈍らせません)


(ただ、

 鈍らせないようにするぶん)


(鈍りそうになる自分を

 ときどき見つめてやらなければ)


自分に言い聞かせるように

柄を握る手に力を込める。


 


背後で、

誰かが笑う声がした。


振り向くと、

少し離れた焚き火の向こうに

猿の姿が見えた。


こちらに気づいたが、

何も言わず、

ただ扇子で火をあおいでいる。


(猿殿も、

 きっといろいろ飲み込んでいるのでしょう)


(殿の傍で、

 泥だらけになって)


自分だけが戸惑っているわけではない。

そう思うと、

胸の棘が少しだけ軽くなる。


 


さくらは立ち上がり、

空を見上げた。


都の方角の夜は、

まだ暗く、

まだ静かだ。


(明日、

 また一つ線を越えます)


(そのたびに、

 自分の中の何かが揺れるのを

 ちゃんと感じておこう)


(感じたうえで、

 それでも刃を振るう)


それができる限り――

自分は、まだ「鬼」ではなく

「人」として刃を握っていられる気がした。


都の手前で、

軍は一度足を止めていた。


遠くに、

薄く白い城の輪郭。

将軍の城。


その手前に広がる屋根の波が、

静かに夕陽を受けている。


 


いつからか、

主君は「魔王」と呼ばれるようになっていた。


最初は陰口だったはずだ。


乱を鎮めるために、

寺を焼き、

将軍に刃を向ける。


「人のすることではない」

「だから魔の王だ」と。


 


ところが、

その名がいつしか

恐れと同じくらいの期待とともに

囁かれるようになっていた。


「魔王様が通れば、

 戦が終わる」


「魔王様に付いていれば、

 食うには困らない」


「魔王様が怒れば、

 すべて焼かれる」


祈りとも呪いともつかない言葉が、

都じゅうの路地で混ざり合う。


 


さくらは、

その噂を耳にするたびに

心のどこかで小さく笑っていた。


(魔王)


(そして、私は鬼)


(……皮肉なものですね)


本当は、

殿は誰よりも「筋」を気にかける人だ。


寺を焼くにも、

将軍に刃を向けるにも、

なぜそうするかの筋を

自分の中で何度も通してから

言葉にしている。


さくら自身も、

できる限り筋を曲げずに

刃を振るおうとしてきた。


なのに、

外から見れば

「魔」と「鬼」。


(きっと、

 そう呼んだ方が話は簡単なのでしょう)


(“魔王と鬼が暴れている”と考えれば、

 自分たちの弱さや

 乱れた世の責を

 少しは外へ押しやれる)


(そう思うのは、

 人情かもしれません)


 


彼女は、

それでも否定はしなかった。


魔王と呼ばれる主君に従い、

鬼と囁かれる自分が

前に立っている現実がある。


それを、

「違います」と打ち消すほど

自分を軽くは見ていない。


(殿が魔王なら、

 私は魔王の鬼)


(それでも、

 刃の向きだけは間違えない)


 


丘を下り、

石畳の道に蹄の音が戻る。


都の外れを抜けると、

将軍の城が

はっきりと見えた。


高くはないが、

広く、重い。


長く続く土塀。

幾重にも折れた屋根。

門の向こうに隠された中庭と上段の間。


(幼いころ、

 遠くから指をさして教えられた場所)


(“あれが将軍様のお城だよ”と)


(決して近づくことのない

 遠い屋根のはずでした)


今、

その前に自分は立っている。


鎧をまとい、

大太刀を背に負い、

女の匂いを鎧の隙間から撒き散らしながら。


 


軍の列の前で、

主君──魔王と呼ばれる男が馬を止めた。


振り返る。


その視線が、

さくらにも、

猿にも、

名もなき兵たちにも

等しく落ちる。


「これより将軍の城を攻める」


言葉は静かだった。


「ここを越えれば、

 この国に“上”と呼べるものは

 ひとつしか残らぬ」


「それが良い世かどうかを決めるのは、

 この先の我らの振る舞いだ」


「刃は、

 今まで通り“乱の根”だけを斬れ」


「それ以外に向けるな」


さくらは、

その言葉をゆっくり飲み込んだ。


(魔王と呼ばれても、

 殿の言うことは

 やはり筋から外れていません)


(問題は、

 その筋があまりにも鋭くて)


(血も、寺も、将軍様も、

 みんなまとめて切ってしまうところ)


 


城の白壁に、

夕陽が淡く差している。


その影の手前で、

さくらは大太刀の柄に手を添えた。


(魔王の刃として)


(鬼と呼ばれるこの身で)


(ここを越えた先の世を、

 少しでも「戦の少ない世」に変えるために)


(……たとえ、

 今の私がすぐには飲み込めなくても)


 


城門の前の空気は、

静かに重くなっていた。


次の一歩で、

「魔王」と「鬼」は

ついに将軍の城へ

足を踏み入れることになる。

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