7.戦の始まり
――昼頃。
山影が濃く落ち、
風が乾いた土を巻き上げる。
小隊は
目的の村の手前で足を止めた。
竹林の向こう、
板葺きの屋根が歪んでいる。
畑は荒れ、
土塀が崩れていた。
その光景だけで、
ここが平穏ではないことが分かる。
村の入り口に立つと、
風がふっと甘くなる。
誰かが息を飲んだ。
家屋の陰から
怯えの眼差しが覗く。
子どもが母に抱かれ、
老人が戸口からこちらを見る。
その視線には
敵意ではない、
期待と不安の入り混じった揺らぎがあった。
「……襲われた跡です」
若侍が低く言う。
倒れた柵、
焦げた壁。
馬の死骸を、
村人が必死に土で隠そうとしていた。
さくらは村の中央へ歩く。
香りが後を追い、
誰もが距離を測るように追ってくる。
緊張が
地面の冷気のように沈殿する。
やがて、
村の代表と思しき老人が頭を下げた。
「お、お味方……で?」
声が震えている。
「敵は?」
さくらの問いは短い。
老人は震える指で
北の尾根を指した。
「……砦の方から、
二度、三度……
人さらいと、
田畑の荒らしが……」
若侍の眉が動く。
(ただの試し合いではない。
領地争いの前段……)
だが、
さくらは表情を変えずに聞く。
「戦える者は残っていますか」
老人は首を振った。
「逃げたか、殺されたか……
若い者は散り散りで……」
その言葉に、
村人たちの目が揺れる。
誰かが泣き出し、
誰かがこちらに縋るように視線を投げた。
――その瞬間、
場の空気が変わった。
村人が、
“期待してしまった”のだ。
噂の女武者が来た。
強いと聞いた。
匂いを放つと聞いた。
殿のお側と言われた――
ならば助けてくれるのではないか、と。
その視線が
一斉にさくらに集中する。
若侍は息を飲んだ。
(……この人の背負うものは、
もう剣だけではない)
人の期待、
噂の重さ、
匂いが運んだ名声。
さくらは
村の中央に立ち、
周囲を一度見渡した。
甘い香りが
荒れた空気に混ざって流れる。
誰もが
彼女の言葉を待っている。
さくらは静かに言った。
「村を見せてください」
老人の顔がほころび、
村人たちは道を作る。
その瞬間、
緊張が一度解け、
しかし――
奥の見えない敵の気配が
風とともに忍び寄っているのを
さくらだけが感じていた。
(……まだ動くのは早い)
彼女の目が
尾根の方角を射抜いた。
戦は、
この村の中では終わらない。
これから始まる。
---
村の奥へ向かう途中で――
風がひとつ、
違う音を運んだ。
馬の蹄。
それも、
数ではない。一つだけ。
若侍が即座に手を刀に掛ける。
さくらは一歩前に出た。
村の入口の柵越しに、
影が現れる。
鎧の色が違う。
この地の者ではない。
敵の斥候。
村人の息が止まる。
子どもの泣き声まで凍った。
その斥候は村を見回し、
一瞬だけ目を細めて――
匂いに気づいた。
(……?)
馬上で、
鼻がわずかに動いたのが遠目にも分かる。
風がこちらへ流れ、
桃の甘い香りがその男に届いた。
敵はほんの一瞬、
判断を狂わせた。
馬が踏み出すように前へ進んだが、
斥候自身が手綱を引いた。
(何だ、この……?)
戸惑いが、
戦場で最も命取りな“間”を生む。
――そこに、
さくらが歩み出た。
兜の顎紐を締め、
声を張ることもなく、ただ立つ。
「戻りなさい」
その声は小さいが、
刀より鋭かった。
斥候は身を引き締める。
敵がいると知ったのではなく、
自分が揺らされていることに気づいたのだ。
殺気でも威圧でもなく、
“匂いに意識を奪われる”という
理解不能の揺らぎ。
(この女……)
判断が瞬時に走る。
ここは偵察の目的地。
交戦の命令はない。
だが引けば弱さを晒す。
その逡巡が、
次の瞬間には遅かった。
---
さくらが地面を蹴った。
迂闊に跳ぶこともなく、
ただ 間を詰める。
斥候の目が見開かれる。
(速い――)
その刹那、
馬の首筋にそっと刃が触れた。
斬ってはいない。
ただ
「次の呼吸で斬れる」位置にいる。
そのことが、
敵に敗北感を与えた。
「……!」
斥候は馬を引き返すしかなかった。
恥辱と、
名状しがたい恐怖を抱いたまま。
土煙を残し、
北へ逃げていく。
---
村の空気が一気に解けた。
村人が息を吐き、
若侍が肩を下げる。
(今、確かに……命を落とし得た)
彼はその事実に、
むしろ感動していた。
斥候が逃げたということは、
敵軍は必ず動く。
この村はもはや戦場になる。
さくらは、
逃げた影の方向をただ見続けていた。
(……匂いは、今の一瞬で十分伝わった)
その淡い香りが、
敵の判断を狂わせたのだ。
生き延びた者ほど、
強者の噂を広める。
それが戦場の摂理。
若侍は喉の奥で呟いた。
「……これで来ますね、敵が」
さくらは頷かず、
ただ風の行き先を見た。
戦の流れが動いた瞬間の音を、
彼女は聞いていた。




