66
北の名門討伐の触れが出たのは、
まだ猿の城の石垣に新しい土の匂いが残っている頃だった。
◆
山城からの書状は、
短かった。
> 北の名門、討つ。
猿の城も兵を出せ。
さくらも同行せよ。
それだけ。
猿は文を読み、
その場でさくらに渡した。
「こういう時だけ、
筆が早いお方で」
冗談めかした声。
さくらは文を読み終え、
静かに頷いた。
「分かりました」
「私も行きます」
「むしろ、
さくら殿がいない方が
怒られましょう」
扇子で肩を軽く叩きながら、猿は言う。
「“北の名門を討つ”と掲げた時点で、
鬼娘を前に出さぬ手はない」
「……便利ですね、私は」
「ええ、とても」
さくらは、それを素直に受け取った。
◆
出陣の日。
城門の前に兵が並ぶ。
鎧の継ぎ目から、
まだ新しい革の匂いがした。
猿は、
自分の城の旗とともに
殿の旗も高く掲げさせる。
「ここから出る槍も刀も、
“殿の牙”です」
兵たちの顔を
ひとりひとり眺めてから、
大声でそう言った。
その列の中に、
さくらの姿があった。
大太刀を背負い、
太刀を腰に差し、
前を見ている。
(北の名門)
(あそこに、
婿殿の軍の残りも入っている)
事前に届いた知らせには、
そう書かれていた。
婿が討たれたあと、
行き場を失った残党たちが
守りを求めて北へ走った、と。
(……仕方のないことです)
(国がなくなれば、
兵は“受け入れてくれる旗”を探すしかない)
それでも、
胸のどこかに
鈍い石がひとつ沈む。
(婿殿が守れなかった兵たち)
(彼らを、今度は私が斬るのですね)
大太刀の柄に
自然と指がかかった。
◆
行軍は、
静かに進んだ。
猿の城から出た軍は、
道中で他の国の兵と合流していく。
主君直轄の軍、
南から上がってきた兵、
かつて名門に従っていたが
今は殿に靡いた小領主たち。
列が長くなるほど、
空気が変わる。
「北の名門も、
いよいよ終わりか」
「いや、あの城は堅い。
簡単には崩れん」
そんな噂話が
槍の列の中を行き交う。
さくらは、
その少し前にいた。
汗ばむほどではない風の中で、
自分の匂いが
少しずつ列の前へ流れていくのを感じる。
(この匂いも、
今は味方の“士気”に変わっているのでしょうか)
(戦って、不思議ですね)
鉄と血と汗と、
あり得ないものが混じる場所。
そこへ自分も
当たり前のような顔で並んでいる。
◆
夕刻、
一度、野営が敷かれた。
焚き火のそばで、
猿とさくらが向かい合う。
「さくら殿」
「はい」
「北の名門の城には、
婿殿の残党も入っていると聞きます」
「……はい」
少しだけ間があって、
さくらは頷いた。
猿は、
火を見たまま続ける。
「彼らの中には、
“門を閉ざされた”怒りも、
“国を失った”悔しさもあるでしょう」
「こちらから見れば、
今回の戦で
“いちばん刃向けられやすい相手”です」
「だからこそ、
刃を鈍らせるなという話ですか」
さくらが問うと、
猿は苦笑した。
「鈍らせるな、とは
某の口からは言いません」
「ただ一つだけ」
火のはぜる音の合間に、
猿の声が落ちる。
「“婿殿の顔をしている兵”と
“婿殿の名をぶら下げているだけの兵”を
同じにしないでください」
さくらは、
少し考えた。
「……斬る相手には、
変わりません」
「ええ」
「ただ、
さくら殿の胸に残る重さが違う、
というだけの話です」
「全部を“婿殿の残り”だと思えば、
きっとどこかで
さくら殿が自分を責める」
「そういう、
後から効いてくる毒が
いちばん厄介ですから」
さくらは、
火を見つめた。
(この人は、
私の刃よりも
私のあとに来る“鈍り”を見ている)
「分かりました」
短く、それだけ。
「私は、
“今、向かってくる相手”として斬ります」
「婿殿の名は、
ここでは置いておくとしましょう」
猿は扇子で膝を軽く叩いた。
「それで十分です」
「“生きている戦”の話だけを
ここではしていきましょう」
◆
翌朝。
北の空が、
少しだけ低く感じられた。
進軍を重ねるごとに、
空気に冷えた土の匂いが混じる。
丘をひとつ越えたところで、
先頭の斥候が戻ってきた。
「見えました!」
「北の名門の城、
前方に!」
ざわめきが走る。
さくらは馬上で目を細めた。
遠くに見える、
広く長い城壁。
山の肩に張り付くように築かれた
古い石と土。
(ここを呑めば、
北の空は殿の色に変わる)
(ここで躓けば、
北に“第二の牙”を持つことになる)
猿の声が、
後方から飛んできた。
「さくら殿!」
振り返ると、
猿が馬上から扇子を掲げている。
「そろそろ、
鬼娘の噂を
もう一度思い出していただく頃合いです!」
さくらは、
かすかに笑った。
「かしこまりました」
大太刀の柄に手を置き、
前を向く。
北の名門の城。
その石垣の向こうには――
婿の残党も、
名門の兵も、
まだ敗北を知らぬ顔で
こちらを待っている。
(では、
私の仕事をしましょう)
戦は、
いよいよ北の門の前へと移る。
騎馬の蹄が、地面を叩き割るような音を立てて近づいてきた。
北の名門の旗を掲げた先頭の一団。
槍を構えた騎馬隊が、楔の形に隊列を組んで突っ込んでくる。
「ここで押し返せば、まだ勝ち目はある!」
そんな叫びが、彼らの背を押していた。
さくらは、ひとつ息を吸う。
(……馬)
(人より速く、重い)
(ならば──まとめて止めればいいだけ)
大太刀の柄に指をかけ、
地面を蹴る。
先頭の騎馬との距離が
一気に詰まる。
騎手の男が目を見開いた。
「女だと……?」
その驚きが、
判断を一瞬だけ遅らせた。
さくらの大太刀が、
前へ滑る。
振り下ろすでもなく、
振り回すでもなく。
ただ、
突き出した槍の線と交わるように
斜めに引き抜かれた。
一瞬だけ、
重いものが軋む感触。
次の瞬間には、
先頭の馬と騎手が
まとめて崩れ落ちていた。
周囲の騎馬が、
止まり切れずによろめく。
「前が……消えた……?」
さくらは止まらない。
二騎目が、
混乱のまま突っ込んできた。
正面から。
蹄が目の前に迫る。
普通の兵なら、
避けるしかない距離。
さくらは、
一歩も引かなかった。
大太刀を背に戻し、
両手を前に出す。
肩に、胸に、
馬の重みがのしかかる。
一瞬、
地面が唸るように沈んだ。
(重い)
(けれど──持てないほどではない)
足を半歩だけ引き、
腰を落とす。
勢いを殺さず、
そのまま前へ回す。
馬が、持ち上がった。
あり得ない、という顔で
騎手が空を掴む。
次の瞬間、
さくらの肩から前へ放り出されるように
馬ごと横へ投げ飛ばされていた。
土煙が上がり、
隣を走っていた騎馬が
巻き込まれて倒れる。
「嘘だろ……」
「馬を……投げた……?」
騎兵たちの喉から、
笑いとも悲鳴ともつかない声が漏れた。
さくらは息を整えながら、
静かに立ち直る。
髪が大きく揺れ、
汗で温まった桃の匂いが
さらに濃く広がる。
その匂いを吸い込んだ騎兵たちの顔が、
同時に引きつった。
「女の匂いだ……」
「なのに……あれは……」
矛盾が、
恐怖に形を与えていく。
「前に出る者だけ」
さくらは、
自分にだけ聞こえる声で呟く。
「前に出る者だけ、斬ります」
大太刀が、
再び背から抜かれる。
騎馬隊の勢いは、
もう矢ではなく
崩れかけた波のようになっていた。
その波頭を、
さくらは淡々と切り落としていく。
北の名門の兵たちは、
この瞬間ようやく理解し始めていた。
「鬼娘がいる」という噂は、
まだ控えめな表現だったのだと。




