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妹は、助け出された。
◆
城の一室。
薄い障子越しに、まだ戦の音がかすかに聞こえる。
彼女は膝を揃えて座っていた。
衣は整えられているが、指先だけが落ち着きなく動く。
そこへ、さくらが入ってきた。
「妹君。
お迎えに上がりました」
顔を上げた彼女の目には、
安堵と、怯えと、言葉にならない何かが
すべて混じっていた。
「……兄は」
「ご無事です。
婿殿は……殿の裁きのとおりに」
さくらは、それ以上は言わない。
彼女も、それ以上は訊かなかった。
代わりに、
自分の膝の上で握った手を強く結ぶ。
「……わたくしは、
どちらの国の者だったのでしょうね」
ぽつり、と。
さくらは少しだけ考え、答える。
「妹君は、
これからも殿の妹君です」
「それ以外を、
殿はお許しにならないはず」
彼女は、
かすかに笑った。
嬉しさと、
苦さと、
喪失とが混じった笑いだった。
◆
山城に戻ると、
すぐに次の話が始まった。
評定の場に
婿の領地を示す駒が置かれる。
「ここは、
誰に預ける」
重臣たちの視線が、
自然と一人に向かった。
猿。
元・足軽組頭。
今は侍大将。
そして――
「猿」
主君が名を呼ぶ。
「婿の領地を与える。
城主となれ」
静かな言葉だった。
それでも、
広間の空気がはっきり揺れた。
(足軽上がりが、城主)
(譜代でも、名門でもない男が)
誰の顔にも、
一瞬だけ感情が走る。
驚き、
嫉妬、
警戒。
納得と、わずかな安堵。
猿は、
深く頭を下げた。
「……もったいなきことでござる」
声だけ聞けば、
いつもの軽さと変わらない。
だが、膝はわずかに重く地を踏んでいた。
主君は続ける。
「婿の領地は、
妹の居場所でもあった」
「そこを預けるということの重みを、
忘れるな」
「はい」
短い答え。
だが猿は、
その一言の中でいくつもの計算を終えていた。
・裏切りの後をどう縫うか
・婿の家臣たちの怒りと不安
・妹の顔をどう立てるか
・譜代の嫉妬をどう丸めるか
(……やれやれ)
(侍大将どころか、
火だるまの座を頂きましたな)
心の中でだけ、
肩をすくめる。
◆
評定が散じたあと、
廊下でさくらが猿の隣に並んだ。
「城主ですか。
似合いますよ」
猿は苦笑した。
「城の石垣に、
わらじの泥がついて怒られませんかね」
「泥のつかない城なら、
いずれ崩れます」
さくらは、
ごく当たり前のことのように言う。
「猿殿の泥は、
この国を歩き回った泥です」
「むしろ、
ついていた方がいい」
猿は少しだけ黙り、
それから目を細めた。
「……それは、
褒め言葉として受け取っておきましょう」
「ええ。
褒め言葉です」
◆
妹は、
山城の一角に住まいを移された。
兄の国に帰ってきたはずなのに、
「夫を失った女」としての目と、
「殿の妹」としての目の両方が
自分に注がれているのを感じている。
庭で風に当たっていると、
さくらが遠くを通り過ぎた。
桃の匂いが、
一瞬だけ風に混じる。
妹は目を閉じる。
(兄上の刃に守られて、
夫は死んだ)
(兄上の国に守られて、
わたしは生きる)
(それを……
良かったと言うべきなのかどうか)
答えは出ない。
ただ、
兄が「妹を口実にしない」と決めたことだけは、
皮膚の裏側で分かっていた。
◆
その頃、
城壁の上で猿は
北の空を見ていた。
婿の領地が、
新しい主を得た城として
ゆっくりと形を変え始めている。
兵の顔ぶれも、
城下の空気も、
まだ落ち着かない。
「ここをまとめてから、
北の名門ですか」
誰にともなく呟く。
さくらが隣に立った。
「名門を討てば、
北の空気も変わります」
「猿殿の城は、
その“境目”ですね」
猿は、
ふっと笑った。
「境目ばかり
押しつけられますな、某は」
「殿の下で生きるとは、
そういうことでしょう」
さくらの答えは、
あまりにもまっすぐだった。
猿はしばし黙り、
やがて肩をすくめる。
「なら、
もう少しだけ足掻いてみますか」
「泥だらけの城主として」
北の名門の紋が翻る空は、
まだ静かだった。
だが、
そこへ向かう刃と、
そこを飲み込むための城が
すでに形を取り始めている。
一度変わった潮目は、
もう戻らない。
次に揺れるのは、
北の空の番だった。




