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門が、ゆっくりと開いた。
内側の闇から現れたのは、
甲冑をまとった一人の男。
妹が嫁いだ先の――婿殿だった。
◆
彼は、
付き従う家臣すら連れていなかった。
ただ一人、
土の上に足を踏み出す。
足取りは重いが、
膝は折れていない。
さくらは、
大太刀を肩から下ろし、
まっすぐに婿殿を見た。
桃の匂いが、
門前の空気にふわりと広がる。
婿殿は、
その匂いにかすかに顔をゆがめた。
「……噂どおりだな」
「鬼娘」
さくらは首を横に振る。
「私は、殿の刃です」
「鬼かどうかは、
斬られる側が決めること」
婿殿の唇に、
わずかな笑いが浮かんだ。
「そうか」
「では、
今日は“鬼”と呼ぶことにしよう」
◆
二人のあいだに、
自然と輪ができた。
味方も敵も、
その輪から半歩分だけ
外に留まる。
矢も、
鉄砲も、
この瞬間だけは沈黙していた。
婿殿が静かに刀を抜く。
鋼の鈍い光。
手の震えは、
さっきよりいくぶん収まっている。
「妹は……」
言いかけて、
言葉を飲み込んだ。
さくらは、
少しだけ視線を落とす。
「妹君には、
私は刃を向けません」
「殿も、
向けるおつもりはないでしょう」
「刃を向けられたのは、
婿殿お一人です」
婿殿の肩が、
目に見えて軽くなった。
「……そうか」
「なら、
安心して斬りかかれる」
それは冗談にしては、
少し苦すぎる言葉だった。
◆
風が、一度だけ通り抜ける。
次の瞬間、
婿殿の姿がふっと近づいていた。
(速い)
さくらは素直にそう思った。
彼の踏み込みは迷いがなく、
一撃目から急所を狙っている。
妻の兄である主君と
刃を交える覚悟をした男の
重みがあった。
刀が、
さくらの肩口を狙う。
さくらは半歩だけ前に出た。
刃先が、
髪を少しだけ散らして通り過ぎる。
大太刀の柄が
婿殿の脇を叩く。
ご、と鈍い音。
婿殿がよろめいた。
「く……っ」
それでも、
倒れない。
すぐに体勢を立て直し、
今度は低く足を狙ってきた。
(下は、狙いが正しい)
(でも――)
さくらは大太刀を
そのまま下へ滑らせる。
鉄と鉄が一瞬だけ触れ、
婿殿の刃が弾かれた。
彼の目が見開かれる。
「化物め……」
「よく言われます」
さくらの声は、
淡々としていた。
◆
一呼吸、間が空く。
婿殿が懐から
小さな火縄を引き出した。
腰の脇差ほどの長さの筒――
短い鉄砲。
さくらは、
それを見ても表情を変えなかった。
(野で使わなかった分の“切り札”)
(ここで使うつもりでしたか)
火花が散る。
パァン――!
婿殿の刀の影に隠すように撃った弾を、
さくらは身体を捻ってかわした。
袖口が裂け、
腕に熱だけが刻まれる。
婿殿の顔から、
血の気が引いた。
(当たらない……)
(ここまでしても……届かない……)
その瞬間、
彼の中の何かが折れた。
さくらは、
その折れる音を聞き逃さなかった。
◆
「婿殿」
さくらは、
静かに声をかける。
「ここで、
終わりにしましょう」
婿殿は歯を噛みしめ、
それでも刀を握り直した。
「……頼みがある」
「聞きます」
「妻を……」
声が震える。
「……妻を、
“殿の妹”として扱ってくれ」
「裏切り者の妻ではなく」
その言葉だけは、
刃よりも重かった。
さくらは、
ほんの少しだけ目を伏せる。
「必ず」
それだけ答えた。
婿殿は、
ひとつ息を吐き、
「……ならば、
もう思い残すことはない」
と呟いて、
最後の一歩を踏み込んだ。
◆
さくらは、
その一歩を正面から受けた。
刀と大太刀が交差する。
金属の高い音が一度だけ鳴り、
次の瞬間には
音が消えていた。
大太刀の軌跡は、
派手でも、
残酷でもない。
ただ、
必要な線をなぞっただけ。
婿殿の身体が
ふらりと揺れ、
地面に沈む。
叫びも、恨み言もなかった。
最後に、
妹君の名を
ごく小さく呼んだだけだった。
◆
門の上から、
兵たちの息が止まるのが分かった。
「殿……」
「……終わったのか」
敵味方なく、
その場にいた者たちが
同じ言葉を心の中で呟いていた。
さくらは大太刀を払うこともせず、
柄に手を添えたまま
短く頭を下げる。
婿殿にではなく、
この戦そのものに。
(裏切りの行き先は、
ここまでです)
(ここから先は、
国の話)
彼女の背に、
主君の軍の旗がはためいた。
◆
しばらくの沈黙のあと、
城の上から白い布が揺れた。
「門を開けよ!」
誰かがそう叫ぶ。
開いた門の向こうには、
膝をついた兵たちと、
震える家臣たちと、
その奥で立ち尽くす妹君の姿がある。
城攻めの戦は、
形を変えた。
落城ではなく、
“首を差し出したあとの開城”。
猿はその様子を見て、
小さく息を吐いた。
「……さくら殿らしい終わらせ方ですな」
「一番重いところだけ、
自分で斬ってしまう」
それが済んだ今、
残りは「国の筋」を
どう整えるかの話になる。
戦場の潮目は、
もう完全に決まっていた。




