表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

60/121

60

火薬の匂いが、

土と血と汗の匂いの上から

ぐい、と覆い被さってきた。


さくらは、

耳より先に空気の揺れを嗅いでいた。


パァン――!


乾いた破裂音。

右の頬をかすめる風。


一瞬、世界の輪郭が

細く、鋭くなる。


(これが……鉄砲)


刹那の違和感。

次の瞬間にはもう、

身体が勝手に動いていた。


身をひねり、

射線から退く。

袂がわずかに裂ける音。



「……外した……?」


撃った鉄砲足軽が、

自分の手元を疑うように

銃身を見つめた。


間違いなく狙った。

距離も、風も、

これほど狂うはずがない。


なのに――

女は、

弾の線から半歩、

ずれて立っている。


長い髪が遅れて揺れ、

頬にかすった火薬の熱だけが

現実を示していた。


「鬼娘だ……」


誰かが、

思わず口に出した。


その言葉が、

伝染する。


「矢も掴む、

 槍も届かぬ、

 鉄の弾すら避ける……」


「人じゃない……」


まだ一発しか撃っていない。

まだ一人も撃ち殺していない。


それなのに、

鉄砲隊の足が

じわりと後ろへ下がり始めていた。



さくらは、

焼けた空気を鼻から抜きながら

静かに思う。


(矢よりも、

 “来る”という気配が重い)


(でも、

 間合いはまだ見える)


鉄砲傭兵たちは、

訓練を重ねているが――

さくらから見れば、

撃つ直前の「息」を

隠しきれてはいなかった。


狙うとき、

視線が止まる。

指が固まる。

空気が一瞬だけ張りつめる。


(そこから

 半呼吸遅れて火がつく)


(ならば、

 その半呼吸ぶんだけ

 動けばいい)


理屈にすれば簡単な話を、

身体だけで理解している顔だった。



二発目、三発目。


パァン、パァン、と

断続的な音が鳴るたびに、

さくらの影が

ふっと淡く位置を変える。


大太刀の刃に、

火薬の煙が薄くまとわりつく。


撃つたびに外す。

外すたびに、

次の弾を込める手が震える。


「当たらねえ……」

「なんでだ……」


鉄砲は、

本来なら“怖がらせる側”の武器だった。


だが今、

怖じ気づいているのは

撃つ側だった。



丘の上で見ていた婿殿は、

喉の奥が冷たくなるのを感じていた。


(鉄砲が……通じない……?)


もちろん、

本当に弾が届いていないわけではない。

届く前に、

あの女が動いている。


(あれを前に置かれて、

 どうやって兵の心を保てというのだ)


矢なら、

まだ運があると言える。

槍なら、

腕で差がつくと言える。


だが鉄砲は、

本来「腕の差を埋めるための武器」だ。


その鉄砲すら、

「効かないもの」として

兵の胸に刻まれていく。


(鬼娘……)


婿殿の心に浮かんだのは、

戦術ではなく

悪い想像ばかりだった。



一方、

さくらの方は静かだった。


火薬の匂いが強くなるほど、

自分の桃の匂いは

薄くなる。


(……嫌な匂いですね)


(ですが、

 戦の匂いとしては

 “新しい”だけ)


新しい匂いには、

誰もまだ慣れていない。


ならば――

先に慣れた方が、

勝ちに近づく。


さくらは、

自分の中でそう区切りをつけた。


「前に出る者だけ、

 斬ります」


さっきと同じ言葉を

心の中で繰り返す。


鉄砲を構えたまま

震えている者は、

斬らない。


覚悟を決めて

一歩踏み込んでくる者だけを、

確実に落とす。


そうやって

“前に出る意志”そのものを

削っていく。


大太刀が、

再び静かに振られる。


倒れる数は

決して多くない。


だが、

倒れ方だけが深かった。



「……もう無理だ……」

「前に出たら、

 あれに切られる……」


敵軍の士気が、

目に見えて痩せていく。


命令が飛ぶたび、

兵士たちの反応が

半呼吸遅れる。


その半呼吸ぶんだけ、

戦場は冷たくなる。


鬼娘――


その呼び名が、

ただの噂ではなく

目の前の現実として

兵の胸に根を下ろし始めていた。


さくらが一歩、前へ出る。

さらにもう一歩。


走り始めた。



鉄砲足軽たちが狙いを定める前に、

さくらは左右へ、

前へ後ろへ、

大太刀を背に負ったまま

滑るように動いた。


パァン、パァン、と

追いかけるように火薬の音が鳴る。


だが、

音の出どころとさくらの居場所が

合わなくなっていく。


(足が止まれば、

 狙いが定まる)


(動けば、

 火は怖くなくなる)


理屈ではなく、

身体がそう覚えていく。


走る。

止まらない。

振り向きざまに一振りして、

また走る。


鉄砲の煙は

一か所に溜まる暇を失い、

風に散らされていった。


火薬の匂いが、

じわじわと薄くなっていく。



代わりに、

別の匂いが濃くなり始めた。


さくらの汗。

熱を帯びた肌。

鎧の下で温められた桃の香り。


動けば動くほど、

それは空気の中へ溶け出していく。


最初は、

彼女の周囲数歩だけだった。


近づく者が息を呑み、

目を見開き、

足を止めてしまう距離。


しかし、

走るたびに風が運んだ。


前線を、

少しずつ塗り替えるように。



鉄砲足軽の一人が、

ふと気づく。


(火薬の匂いが……薄い)


代わりに鼻をつくのは、

戦場には似つかわしくない甘さ。


「なんだ、この……」


言いかけて、

言葉が途切れる。


甘い。

温かい。

どこか胸の奥をくすぐる匂い。


だが、その中心にいるのは、

大太刀を片手で振るう女。


矛盾が、

嗅覚と視覚を同時に揺さぶった。


「鬼娘だ……」


ささやきが、

ため息のように列を伝っていく。



味方側でも、

その変化は感じ取られていた。


「匂いが……変わったな」


槍を握る兵の一人がつぶやく。


さっきまで、

前に出るたびに

火薬と焦げた油が

喉に絡みついていた。


今は違う。

鉄の匂いではなく、

人の体温のような匂いが漂っている。


(生きている戦だ)


(死ぬためじゃなく、

 抜けるための戦だ)


意味もなくそう思って、

自分の足が一歩前に出ていることに気づく。


「……行けるかもしれん」


誰に言うでもなく漏らした言葉が、

隣の兵の耳に届き、

その隣の兵の肩を押した。



前線だけではなかった。


さくらが走り続けるうちに、

彼女の匂いは

前から後ろへ、

後ろから側面へと

風に乗って流れていく。


鉄砲の火を上書きし、

血と土の匂いと混じり合い、

戦場全体の空気そのものを変えていく。


「さくら殿が動いておられる」


後方の列で、

誰かがそう言う。


姿は見えない。

だが、分かる。


(前が死んでいない)


(押し潰されていない)


(まだ“攻めている”)


その確信だけが、

まだ斬り合いにも参加していない兵たちの

膝を支えた。



婿殿の陣にまで、

その変化は遅れて届いた。


風が向きを変え、

火薬の重さが薄れ、

代わりに甘い匂いが

かすかに鼻を掠める。


「……この距離で?」


馬の上で、

婿殿が顔をしかめる。


鉄砲の煙も、

降りしきる矢も、

叫び声も、

すべてがその匂いの向こうへ

押しやられていくような感覚。


(戦場の中心が、

 あの女のまわりに移っている)


(こちらの陣が、

 “外側”に追いやられていく)


兵法書には載っていない変化だった。



さくら自身は、

匂いのことを

あまり深く考えていなかった。


ただ、息が上がるたびに

鎧の中が熱くなり、

汗が肌を伝っていることだけは自覚している。


(このまま前を崩し続ければ、

 婿殿は出てくる)


(出ねば、

 軍も国も保てない)


大太刀を振るい、

敵の列を裂き、

裂け目を味方に渡す。


それを繰り返す。


走る。

斬る。

また走る。


息は荒い。

だが、

動きに乱れはない。



いつのまにか、

戦場の潮目は

完全に変わっていた。


さくらの周囲だけの話ではない。


・鉄砲隊の間合いが崩れ

・前に出る兵が減り

・声を張る者の音が小さくなり


逆に、


・味方の足並みが揃い

・槍の列がじわじわ前へ出て

・「行ける」という感覚が

 列全体を押し上げていく。


戻せる気配はなかった。


指揮官がどれだけ叫んでも、

鉄砲をどれだけ撃っても、

もはや戦場全体に広がった匂いと空気は

元に戻らない。


誰かが、

ぽつりとつぶやく。


「潮が……

 変わったな」


それは戦況の比喩であり、

匂いそのものの話でもあった。



さくらは、

その変化を背で感じていた。


(もう、

 押し返される戦ではありません)


(ここから先は、

 どう終わらせるかの問題)


大太刀の切っ先が、

わずかに婿殿の陣の方角を向く。


桃の匂いと火薬の残り香が混じる中、

戦場はもう二度と

さきほどまでの均衡には戻らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ