6.紅花の蕾
――戦支度の命は、
朝霧がまだ消えないうちに届いた。
侍女の足音、
家老の短い言葉、
襖が閉まる音。
その後の部屋は、
不気味なほど静かになった。
さくらは一人、
具足棚の前に座った。
甲冑はまだ新しい。
誰かが用意したものだろう。
女の体格に合わせたわけではないが、
無理なく着られる程度の高さと幅がある。
(戦か)
驚きも昂ぶりもない。
むしろ――
やっとかとさえ思った。
腰に刀を取る。
鞘の重みがしっくり来る。
(これで、生きるか死ぬかが決まる)
昔、山賊に追われた旅人を救ったことがある。
夜襲の最中、
刀は迷いなく人の首筋を斬った。
血は温かく、
大きな花を咲かせた。
指に残る震えは、
嫌悪でも快楽でもない。
(人なら何度か切ったことがある)
その事実を、
恐れず、誇らず、
ただ淡々と受け止めている。
胸の奥で、
小さく呟く。
「必要なら、紅花を咲かせてあげましょう」
赤い花弁を撒くように、
命の噴き出す光景が思い浮かぶ。
それは残酷な想像ではない。
戦とは、
決着がつき、
血が地に散ることを前提としている。
ならば、
その結果を恐れないことが
剣の責務だ。
具足を帯び、
髪を束ね、
顔を上げる。
桃の淡い香が、
室内に静かに広がる。
この身の匂いは、
戦場でも隠せないだろう。
だがそれでいい。
敵の間合いが乱れるなら、
それもまた武器だ。
歩き出す前、
襖の影に気配を感じた。
家老が立っていた。
「支度は整うか」
「これで十分です」
そう言って、
刀を軽く鳴らす。
家老は、
その眼差しの奥に
わずかな怯えと期待を混ぜていた。
「……戦は初めてではないな」
「はい」
淡く答える。
「花は、よく咲きました」
その言葉に、
家老の喉が固く動いた。
さくらは何も続けず、
ただ歩き出す。
廊下に漂う匂いが
後に残り、
侍たちの心を揺らす。
(私は斬る。
それが役目なら)
それだけを胸に、
戦支度を終えた。
――夕刻。
戦支度の喧噪が、
まだ城の隅々に響き渡っている。
◆若侍の命
若侍は呼び出され、
家老の前で膝をついた。
「そなたは明日、さくら殿に随行せよ」
一瞬、
胸が熱くなる。
(共に戦に出られる――)
それは望んでいたことだった。
ただ剣を学ぶだけでなく、
その剣が何を切り、
どんな場所で生きるのかを見たいと思っていた。
だが同時に、
喉の奥に冷たい影も落ちる。
(……戦場で、私は足手まといにならないだろうか)
さくらの力は常識を越える。
その影に立つ者として、
自分の弱さが露わになりはしないか。
それでも、
その恐れすら彼の忠誠を深めた。
(ならば、その弱さを見届けたい)
家老が視線を落とす。
「さくら殿は命を惜しまぬ。
そなたが乱れても、助けるとは限らぬ」
「承知しております」
返した声は硬かった。
(それでいい。
そんな人に仕えたいのだから)
◆城中の噂
その夜、
城中は静かでいて、妙にざわついていた。
部屋に灯る明かりの中、
侍たちが酒を回しながら囁く。
「女の剣士が初陣だとよ」
「殿の影の手並み、見ものだな」
「いや、戦より先に……
味方が乱れる方が怖い」
笑いが起きるが、
どこか怯えが混ざっている。
別の者が言う。
「決闘の一件もあったろ?
刀を抜いた側が地面を舐めたとか」
「聞いた聞いた。
木刀で真剣を止めたって話じゃねぇか」
酒が回るほど、
噂は尾ひれを生やしていく。
「敵の大将が近づきゃ、
香り一つで平静を失うんじゃねぇか?」
「なら味方はどうする」
「さぁな。
殿はそれすら試すつもりかもな」
◆漂う不安
その空気は、
城の石垣にさえ染みていた。
誰も表立って反対はしない。
大名の決断だから。
だが――
戦に出る者たちは、
自分の命が“異物の実験”に使われる気配を
薄々感じていた。
しかし一人だけ、
迷いなく前を見ている者がいた。
若侍である。
(戦で、あの人がどう歩くのか……
すべて見たい)
不安も恐れもある。
だがそれよりも、
この女の背に付いていくことの方が価値があると
思い始めていた。
その心の変化に、
彼自身が戸惑っていた。
(私は、もう殿に仕えているのか?
それとも――
さくら殿に?)
その問いは戦が始まれば、
答えが形になるだろう。
城の夜は深まり、
戦の匂いが風に混じり始める。
桃の香とは別の、
血と鉄の予感の匂い。
明日は動く。
そして誰かの人生は、
確実に変わる。
---
――出陣の朝。
霜が薄く地面を覆い、
太鼓の皮が冷えた音を響かせる。
馬のいななき、
鎧の擦れる音、
旗が風を裂く音。
城下の住民たちが道の両脇に集まり、
曇った息を吐きながら
行軍の列を見つめていた。
その先頭付近――
異彩を放つ一人がいた。
さくら。
具足を纏い、悠々と歩いている。
顔は兜に半ば隠れているが、
姿勢の端々には
“どこか異質な者”の気配があった。
だが、
それだけではない。
列が民家の並ぶ通りに入った瞬間、
ざわり、と人々の顔が揺れた。
甘い匂いが、
風に乗って流れたのだ。
鎧越し、
鉄と革の匂いに混じり、
明らかに別ではっきりしている。
桃を割ったときの、
青い皮の下の香気。
「……あれが例の……」
最前列の男が呟き、
後ろの女が首を伸ばす。
「女武者だって?」
「いや違う、女なのに男を投げたっていう……」
「殿のお側にいるとか」
「敵を惑わせる匂いを放つんだとよ」
囁きは
驚愕というより――
畏れと、興味。
さくらは視線を向けない。
城下の噂など、
戦支度の靴裏の泥のようなものだ。
ただ路上で静かに息を整える。
(人の心が乱れる――
それなら利用すればいい)
だが、
その匂いが味方に揺らぎを与えていることも
彼女は知っている。
旗を持つ侍が、
一瞬振り返って目を逸らす。
馬番の少年が、
無意識に頬を赤らめる。
誰もが気づくのに、
誰も口にしない。
それが噂の正しさを証明していた。
道端で見守る老婆が、
ぽそりと言う。
「……戦の鬼になるよ、あの娘は」
その声には、
嫌悪ではなく、
期待の響きが混ざっていた。
若侍はすぐ後ろの列にいた。
彼は人々の囁きを聞きながら、
奇妙な誇りを胸に湧かせていた。
(この人こそ、
誰より先に戦場に立つべき者だ)
そして、
胸奥のどこかが疼いた。
(その背の下にいるということは……
私の剣も同じ場所にあるということか)
出陣の行列は城門を抜け、
野へ向かう。
残された者たちは
立ち尽くしながら
風に残った甘い匂いを吸い込み、
不安と期待の境界線を感じていた。
――あの女が
国をどう変えるのか。
その始まりが、
霜を踏みしめる蹄の音と共に
動き始めた。




