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陣太鼓が、一度だけ鳴った。
それだけで、
野の空気が変わる。
◆◆最前線
さくらは、いつも通り
先頭列の、さらに一歩前に立った。
鎧の上からでも分かるほどの女の線。
しかし立ち姿は、
どの男よりも揺るぎない。
風が吹くたび、
長い黒髪がふわりと翻る。
そのたびに、桃のような甘い匂いが
前線の空気へ溶けていった。
敵陣から、ざわめき。
「……噂どおりだ」
「匂いが……ここまで……」
「女の匂いだぞ……」
「なのに、あの大太刀……」
さくらは聞いていない。
聞いていても、
意味を持たせない。
ただ大太刀の鞘に手を添え、
静かに一息。
(ここは……妹君の国)
(けれど、
刃を鈍らせる理由にはならない)
心の中で
それだけを確認した。
◆◆開戦の合図
弓の音がひとつ上がり、
矢がまばらに飛んだ。
まだ探るような射ち方。
互いの距離は
本当の意味で詰まってはいない。
さくらは
矢を気にも留めない。
一本、肩口に向かってきた矢を
振り向きもせず大太刀の鞘で払い落とす。
その動き自体が、
前線の兵には十分な「合図」になった。
「……行くぞ!」
「続け!」
味方の槍の列が動き出す。
足並みが、さくらの歩幅に
自然と合っていく。
◆◆一歩、踏み込み
敵との間合いが詰まる。
さくらは、
大太刀を背から抜いた。
刃渡りの長い鉄が
陽を受けて白く光る。
桃の匂いが、
鉄と革と汗の匂いに
上乗せされて漂う。
敵兵の一人が
思わず叫んだ。
「女だぞ!
下がれ、相手にならん!」
「いや、下がるな!
出ろ!」
命令が交錯し、
列がわずかに乱れる。
さくらは、そこを逃さない。
「——失礼します」
誰に向けたとも知れない小声とともに、
一歩。
大太刀が、
横に薙いだわけでもなく、
大仰に振り下ろされたわけでもない。
ただ、
まっすぐに前へ滑るような軌道を描いた。
先頭にいた数人が、
自分が何をされたのかも分からぬ顔で
崩れ落ちる。
血飛沫は描かない。
ただ、列が「欠けた」ことだけが分かる。
それだけで充分だった。
「前が……
消えた……?」
「何だあれは……」
恐怖より先に、
理解の追いつかない沈黙が走る。
◆◆匂いと恐怖
近づいた兵ほど、
さくらの匂いを強く感じる。
女の匂い。
若さの匂い。
戦場に似つかわしくない甘さ。
それが、
目の前の光景と噛み合わない。
「女の匂いなのに……
やっていることは鬼だ……」
誰かが呟く。
矛盾が、
兵の心の中にひびを入れていく。
「斬られるのは嫌だ」
「でも、目を逸らせない」
そんな混乱が、
前線の足を止めた。
さくらは、
その足の止まり方をよく知っている顔だった。
(戦い慣れた兵の“止まり方”ではない)
(判断と本能が喧嘩している)
(……なら、前を崩せば早い)
◆◆的を選ぶ
さくらは、
個々の兵を見ていない。
旗の位置。
声を張っている者。
列を繋ぎ止めている視線。
そこだけを探す。
一際大きな声を上げている
小隊長らしき男がいた。
「下がるな!
女一人だ、囲めば……!」
その言葉の途中で、
さくらの姿がふっと近づく。
男の目が見開かれる。
距離を測る暇もない。
大太刀が、
彼の槍の柄ごと
斜めに払った。
槍が折れ、
声が途切れ、
周囲の兵が「支柱」を失う。
「隊長!」
「……隊長が……!」
一人の倒れ方だけで、
一つの塊が崩れる。
さくらは追わない。
崩れた兵を追い散らすのは
味方の役目だ。
自分は、
次の「支え」だけを探す。
◆◆婿の視線
少し後ろの丘から、
婿殿は前線を見ていた。
遠目にもわかる。
ひときわ大きい鉄の影と、
翻る黒髪。
(……あれが、
妻の兄君の刃)
噂で聞いていた「鬼娘」が
まさかここまで
「形」として分かるとは思っていなかった。
婿殿の喉が、
乾いた音を立てる。
「鉄砲隊はまだか」
「仕度に時間が……」
「早くしろ!」
切羽詰まった声に、
鉄砲足軽たちが
慌てて段取りを急ぐ。
婿殿は
さくらから目を離せないでいた。
(あれを止めなければ、
前線が“人”として保てない)
(怖れて逃げるだけの群れになる)
恐怖と判断が、
その胸の中で押し合っていた。
◆◆桃の匂いの中で
さくらは、
自分の匂いが
敵兵の顔を歪ませていることを
感覚で知っていた。
(戦場で、
こんな匂いがするはずがないと
思っているのでしょうね)
(しかし、
戦はいつだって「あり得ないもの」が
混じることで形を変える)
自分はその「あり得ないもの」の一つだ。
それをよく知っている。
「前に出る者だけ、
斬ります」
小さく、
誰にも聞こえない声で区切りをつける。
彼女にとって、
これは処罰ではない。
“筋”に従って刃を振るう
作業に近かった。
大太刀が再び走る。
桃の匂いと鉄の光が、
前線の兵の心を
さらに削っていく。
戦は、
まだ始まったばかりだった。




