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◆◆婿を討つ、と決まってから


日がいくつか過ぎた。

だが山城の空気は、

決戦前の張り詰めたそれとは少し違っていた。


重さではなく、

決めた筋をなぞるような静けさ。


主君が方角を指せば、

軍が動く。

それだけの話になってきている。



◆◆狸からの返書


南の同盟者──狸からの返書は、

妙にあっさりしていた。


「婿殿の処置、お任せつかまつる」


「北をまたぐ綱は、

 この際一度断ち切った方が

 世のためにも良うござろう」


几帳面な文字なのに、

どこか笑い声がにじむ文。


(婿に情けをかける気はない、と)


(それどころか、

 北との古い綱が切れることを

 歓迎している)


猿は文面を見て、

心の中でそう読み替えていた。


狸は、

善悪では動かない。


ただ、

これから勝つ側に賭けるだけだ。



◆◆婿の国へ向けた軍議


地図の上で、

婿の領地に石駒が置かれる。


「急ぐ」


主君はそれだけ言った。


「長くかければ、

 総本山が息を吸う」


台所の隣で膨らみつつある影が、

この戦の時間を決めていた。


「婿の城は堅くはないが、

 山と川で守られておる」


重臣の一人が言う。


「正面から攻めれば、

 少々骨が折れましょう」


主君は首を振った。


「城を責めるつもりはない」


「婿の“心”を責める」


猿の目が細まる。


(――外で決着をつけるおつもりだ)


婿は、

北の名門と結び、

袋を締めようとした。


つまり、

外で動ける軍を持っている。

そこへこちらから出向けばいい。



◆◆さくらの内心


評定の間の片隅で、

さくらは無言で地図を見つめていた。


婿の領地。

妹君の嫁ぎ先。


(ここを切り取れば、

 妹君の“居場所”も斬られる)


(それでも殿は進む)


情と筋のどちらかを選べと問われれば、

主君は迷わず筋をとる。


さくらは、

それがこの主君の器だと理解していた。


(ならば、

 刃は筋の側に立つ)


それが、

自分の答えだった。



◆◆妹からの二度目の便りは──来なかった


小豆の袋以来、

妹から何の便りもない。


それが、

むしろ明瞭な答えにも思えた。


(兄にも、夫にも、

 これ以上何も言えない)


(どちらも切られる可能性があるなら、

 もう黙って流れを見ているしかない)


猿は、

そういう沈黙の匂いを嗅ぎ取っていた。



◆◆出陣


婿の領地へ向け、

軍が形を整える。


都を出るとき、

誰も声高な鬨をあげなかった。


今回の戦は、

「裏切りを正す戦」

と、早くも呼ばれ始めていたからだ。


華やかさの代わりに、

どこか冷えた覚悟だけがある。


さくらは先頭近くで馬を進めながら、

ふと都を振り返った。


(ここを何度も焼かせた旧勢力も)

(今、ここを静かに守ろうとする殿も)


(どちらも“都を手段にした”という点では

 変わらないのかもしれません)


それでも、

今の主君のやり方は、

少なくとも民を見ている。


そこが決定的に違うと、

さくらは思っていた。



◆◆婿の城下


婿の城は、

豊かな谷にあった。


田畑はよく実り、

川は澄み、

城下には家が詰まっている。


兵だけの国ではない。

婚礼で結ばれた縁の先に

確かな民の暮らしがある。


城下へ向かう道すがら、

民たちがこちらを見ていた。


恐れと、

怯えと、

少しの期待。


「婿殿は……

 兄君に槍を向けたのだろうか」


「なら、

 討たれても仕方ないのではないか」


そんな囁きも聞こえる。


(民も知っている)


(袋を締めようとしたのが

 誰だったか)


さくらの鼻先に、

田の土と水と、

人の暮らしの匂いが入り混じる。


(ここを焼き払うような戦には

 したくない)


(なるべく──

 短く、浅く)



◆◆婿の城内


その頃、婿殿は、

城の上段の間で

報告を聞いていた。


「兄君の軍、

 すでに国境を越えました」


「南の狸殿は動かず。

 今回は“見物”であると」


婿の顔色は優れない。


妹君は、

隣の部屋に控えていると聞いていた。


(兄が来る)


(裏切ったのは、自分)


(だが、

 ここで膝を折れば

 国が潰れる)


名門との綱。

総本山の立ち。

台所との駆け引き。


婿の頭の中は、

策と恐怖でいっぱいだった。


「出ます」


ようやく絞り出した声は、

かすれていた。


「城に籠もれば、

 悪名だけが残る」


「外で……

 決着をつける」



◆◆二つの軍が向き合う


川沿いの緩やかな野。

片側が浅瀬になっている。


そこに、

主君の軍と婿の軍が

向かい合う形になった。


旗はよく見える距離。

だが、

まだ矢の届かぬ間合い。


風が、

互いの陣の匂いを運ぶ。


さくらには、

婿の軍の中に

妹君のかすかな香りが混じっているような

錯覚があった。


(あの方の居場所を、

 これから斬る)


(それでも筋を通すことを

 殿は選んだ)


前へ出る主君の背は、

迷いがない。


猿は、

さくらの少し後ろに位置し、

兵の列の揺れを一つ一つ見ていた。


「今度の敵は、

 “逃げ場を失った味方”ですな」


誰にともなく、

低く呟く。


さくらは

刃の柄に手を置き、

呼吸を整えた。


> (刃の仕事は、

 ここからです)




> (殿が従うと決めた筋を、

 形にする役)




川の水音が、

合図のように聞こえた。


次の一歩で、

肉親を挟んだ国同士の戦が始まる。

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