57
評定の間に、
重たいひとことが落ちた。
「まず――婿を討つ」
主君はそれだけを言い、
地図に置かれた駒を北から、
少し手前へと動かした。
◆◆婿を先に討つ理由
総本山の報に、
誰もがそちらへ目を向けていた。
台所の隣に座す巨大な影。
信徒と鉄砲傭兵を抱える牙。
だが主君は、
あえてその駒には触れなかった。
「総本山は、
まだ籠っただけだ」
「牙を向いているが、
動いてはおらぬ」
扇に似た指先が、
静かに別の場所を叩く。
「動いたのは、婿だ」
「妹を抱えながら、
北の名門と共に
我らを挟み撃ちにした」
「まず、
そこから正す」
重臣のひとりが低く言う。
「……御身内にございます」
主君はあっさり返した。
「だからこそ、
曖昧にはできぬ」
「身内だから許す国は、
身内に食い破られる」
その言葉に、
誰も続けて口を開けなかった。
◆◆猿の表情
猿は、
黙ったまま地図を見ていた。
婿の国は、
袋の片側を締める役を
引き受けた相手だ。
(あの小豆の袋)
(あれがなければ、我らは全滅していた)
「婿殿は、
こちらの力を見ながら
どちらに着くか測っておられたのでしょうな」
猿がようやく口を開く。
「その先にあるのは、
殿ではなく自国の都合だけ」
それは責めるというより、
淡々とした観察だった。
主君が短く言う。
「都合だけ見る者は、
信も道も持たぬ」
「ならば、
国ごと斬っておいた方が
後腐れがない」
◆◆さくらの胸のうち
さくらは、
婿の国の旗を思い浮かべていた。
かつて、味方として
肩を並べた戦場がある。
(敵に回った以上、
情けをかける余地はない)
(けれど……)
妹の顔は知らない。
噂で聞くだけだ。
聡明で、
よく笑い、
兄を敬っていると聞く。
(その妹君の、
夫であり、国)
(そこを討つということは――
妹君の“居場所”そのものを
斬るということ)
刃としての理解と、
人としてのひっかかりが、
淡く胸の中でもつれた。
だが、
さくらの答えは揺れない。
(それでも、
殿が決めたなら)
(私は、その刃を振るう)
◆◆妹からの沈黙
評定が散じたあと、
ふと誰かが言った。
「……妹君からは?」
「新たな知らせは?」
猿が首を振る。
「小豆の袋以降、
何も」
「それ自体が
答えかもしれませぬな」
――夫と兄のあいだで、
どちらにも加担しきれない沈黙。
それは、
どちらかの敗北を
覚悟している沈黙でもある。
主君は、
その沈黙を責めなかった。
ただひとこと。
「妹は、余の血であり、
あやつの妻だ」
「どちらを選んでも苦しかろう」
「だから……
選ばせぬ」
誰かが顔を上げる。
「……は?」
主君は静かに続けた。
「婿が裏切った。
袋にした。
責める理由は余にある」
「妹は、
何もしておらぬ」
「ならば、
妹の名を口実にすることは許さん」
「婿は“裏切り者”として討つ」
「それだけだ」
血縁を楯にもせず、
楔にもしない。
重臣たちは
それがこの国の
実力主義の根にあるものだと
改めて思い知らされていた。
◆◆猿とさくら、廊下で
廊下を出たところで、
猿が小さく嘆息した。
「……身内を斬る覚悟を
ああも平然と見せられると、
こちらの方が寒くなりますな」
さくらは首を傾げる。
「寒いのですか?」
猿は苦笑する。
「ええ」
「でも同時に、
妙に安心もするのですよ」
さくらは目を瞬いた。
「安心?」
「ええ」
「“身内だから守られる”という
甘えが通じないなら、
“身内でないから斬られる”という
不安も薄れる」
「働きでしか見られないのは、
怖くもあり、
楽でもある」
さくらは、
それを聞いて少しだけ笑った。
「猿殿は、
やはり変わっています」
猿は肩をすくめる。
「さくら殿も大概ですよ」
「身内でもないのに
殿のために喜んで殿を務めるなんて」
ふたりの会話は、
静かな冗談めいていたが――
その裏には、
同じ覚悟があった。
◆◆方針は決まった
・総本山はまだ動かさない
・まず、裏切った婿を討つ
・袋の紐の片側から順に断ち切る
それは
道義というよりも、
“後々の禍根を断つ”ための順番だった。
信仰の牙よりも、
身内の裏切りの方が
国の内側を腐らせる。
そこから正す。
さくらは、
北を向く風の匂いを嗅いだ。
> (この戦は、
ただの領土の取り合いではありません)
> (殿がどのような“筋”で
天下を取るのかを示す戦)
妹の居場所を斬り、
国の筋を通す。
その冷たさを知りながら、
それでもこの主君に
刃を捧げる自分がいる。
さくらは大太刀の柄に触れ、
小さく息を整えた。
婿を討つ戦が、
静かに動き出していた。




