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命からがら戻った軍は、
勝者の凱旋というより――
溺れかけて岸に這い上がった群れに近かった。
槍の列は乱れ、
馬の脚は泥にまみれ、
兵たちはそれでも前を向いて歩いていた。
退却は失敗ではない。
ただ、「生き残るために払った代価」だけが
肩に重く乗っていた。
◆◆戦後の評定
仮の陣屋。
主君と狸が向かい合い、
その脇に家中の者たちが控えていた。
狸は笑っていた。
いつもの、底の読めない笑みで。
「いやあ、
見事なご退却でございましたなぁ」
「袋の口が締まる寸前に
すっと掻き出すあたり、
さすがでございます」
主君は応えない。
ただ一度だけ瞼を閉じる。
(殲滅されれば、
ここから先の天下はなかった)
(退くと決めた時から、
次の戦までが“繋ぎ”になる)
その「繋ぎ」を、
誰が支えたか――
その話になる。
◆◆名の読み上げ
戦後の功をあらわすため、
名が一つずつ読み上げられていく。
討ち取った首の数。
守りきった陣の名。
そして――
「殿を務め、
本隊退却の路を守り抜いた者」
ざわめきが止む。
その場にいた誰もが、
あの坂道の息苦しさを思い出していた。
名を呼ばれたのは、
残った兵たちと、
最後に二人。
「猿」
「さくら」
猿は頭を下げ、
さくらは静かに一礼する。
◆◆猿の昇格
書役が広間に響く声で告げた。
「足軽大将・猿」
一拍置いて、続く。
「今度の働き、
まこと見事」
「これより、
侍大将に取り立てるとの御沙汰である」
空気が、一瞬止まった。
足軽の出。
平民上がり。
もともとは雑兵を束ねたに過ぎない男が――
一足飛びに、
侍を束ねる立場へ。
武家の列の端で、
誰かが小さく息をのんだ。
(侍大将……?
あの猿が……?)
(家もない、譜代でもない男が……?)
嫉妬と戸惑いと、
薄い怒りが混じった視線が
いくつも猿の背に刺さる。
猿はそれを
まるで見ていないふうで、
きっちりと頭を垂れた。
「……もったいなき、幸せ」
声はいつも通り軽いが、
その奥で何かが静かに軋んだ。
◆◆さくらの目に映るもの
さくらは、
その様子を横目で見ていた。
(当然です)
(殿を名乗り、
殿として務めきった者)
(それを立てられない国なら、
いずれ腐ります)
ただ、
「当然」が
周囲にとっては毒でもあることも
理解していた。
(この昇格は、
猿殿にとって誉れであると同時に、
刃を向けられる数を増やすことになります)
(彼を「押し上げられた足軽」と見る目と、
「器どおりになった」と見る目)
それらが
この先、
都と山城のあちこちで交差するのだろう。
◆◆猿の内心
儀式が終わり、
外に出ると風が冷たかった。
猿は屋根を見上げ、
小さく息を吐く。
「……いやはや」
独り言のように呟く。
「足軽大将から侍大将、ですか」
「得か損かと言えば、
得なんでしょうなぁ」
禄は増える。
口を出せる場も増える。
扱える駒も増える。
だが――
(失敗した時、
首が先に飛ぶ順番も
前に出た)
(“足軽のくせに”と
笑っていた連中が、
今度は“侍のくせに”と
牙を研ぐわけだ)
苦笑いがもれる。
「……まぁ、
それでも前に出たのは
自分ですしね」
殿を申し出た時から、
こうなる“気配”は
どこかで感じていた。
◆◆さくらとの短い会話
少し離れたところで
さくらが待っていた。
「おめでとうございます、猿殿」
猿はわざとらしく肩をすくめる。
「いやいや、
さくら殿の方こそ」
「殿の場で、
鬼のような顔をされていましたぞ」
「敵から見れば、ですが」
さくらは首を傾げる。
「私は、
ただ刃を振るっただけです」
「残された者の命を
一つでも多く繋ぐために」
猿は笑い、
少し声を落とした。
「殿を務めて戻った者が、
“ただ”なんて言ってはいけませぬ」
「それが出来ぬ者ばかりだからこそ、
殿は価値がある」
少し間を置いて、
ぽん、と自分の胸を叩く。
「……侍大将、ですって」
「似合いませんなぁ」
さくらはしばらく彼を見つめ、
小さく言った。
「似合いますよ」
「器にふさわしい名になっただけです」
その言葉は飾り気がなく、
だからこそ猿の胸の奥に
少しだけ熱を残した。
◆◆狸の観察
遠巻きに二人を眺めながら、
南の同盟者――狸が、
口元だけで笑っていた。
「足軽上がりの侍大将、ねぇ……」
「この国は、
身分の帳面を書き換える気らしい」
それは
軽口のようでいて、
深い興味が滲んだ言葉だった。
(身分をひっくり返せる国は、
恐ろしくもあり、
面白くもある)
(いずれ、自分の首にも
刃が向くやもしれぬが――)
(それを承知で並び立つ価値は、
まだある)
狸はそう計算していた。
◆◆主君の視線
陣の少し高い場所から、
主君は全体を眺めていた。
退却から戻った軍。
昇格した猿。
無言のさくら。
遠くで笑う狸。
(殿を申し出る者がいる限り、
国は沈まない)
(身分に縛られず
器で上げる国は、
恨みも生むが
それ以上の勢いも生む)
その代償も、
よく分かっている。
この昇格は、
北への失敗を
ただの敗走で終わらせないための
「形」でもあった。
国はまだ折れていない。
刃も、策も、生きている。
それを
軍全体に刻みつけるための
一つの演出。
風が変わった。
北へ伸ばした手は
一度払われた。
だが、その手はまだ残っている。
猿は新たに「侍大将」となり、
さくらは相変わらず刃として立ち、
主君はその二人を前に進ませる。
退却の痛みを抱えたまま、
この国はまた、
次の戦へ歩き出そうとしていた。
重臣たちは、
主君のやり方を
とうに理解していた。
身分ではなく、
器で人を動かす。
それがあったからこそ、
この小国はここまで躍進できたのだと。
◆◆重臣たちの腹の内
評定が終わった後。
大広間の隅で、
年配の重臣が茶をすすりながら言う。
「……足軽上がりを侍大将に、か」
「他の殿ならば、
考えられぬ話だ」
隣の者が小さく笑う。
「いや、だからこその殿でしょう」
「器があれば上げる。
それをやってきたから、
今がある」
言葉ではそう言う。
だが、その目の奥には
小さな刺が残っていた。
(……とはいえ、
譜代の家からすれば
面白い話ではない)
(代々仕えてきた家々を差し置いて、
あの猿が前に出る)
功績は認める。
しかし、
それと嫉妬は別のところで燃える。
◆◆人たらしの間合い
そこへ、
のぞき込むような声が差し込む。
「おやおや」
猿が、
いつの間にか近くにいた。
「渋い顔をして茶を飲むと、
余計に渋くなりますぞ」
年配の重臣が
むっとして振り向く。
「……お前の話をしていた」
猿はあっさり頷いた。
「でしょうな」
「誉め言葉半分、
悪口半分と見ましたが」
「外しましたか?」
その軽さに、
刺の先が少し丸くなる。
「……外しちゃおらん」
「だがな、
武家には武家の筋目というものがある」
猿はきちんと正座し、
頭を下げた。
「それは重々、承知のうえでござる」
「某のような者が前に出るのは、
気持ちの良いものではありますまい」
「だからこそ……
ご迷惑をおかけする分、
働きで返すしかござらん」
言葉は飾らない。
「筋を乱した側」の自覚を
隠しもしない。
◆◆嫉妬の受け止め方
別の重臣が口を挟む。
「お前は平然としておるな」
「妬まれている自覚があるなら、
もう少し身を低くしても
よさそうなものを」
猿は苦笑した。
「身はこれ以上低くなりませぬ」
「もともと土の上で転げ回っていた身ですから」
周囲に、
わずかに笑いが漏れる。
「ただ……」
猿の目だけが、
少しだけ真面目になる。
「妬まれるのは、
殿のやり方の“結果”でござる」
「身分ではなく働きで決める。
それに救われた者もいれば、
割を食ったと感じる者もいる」
「どちらも、
この国には必要な方々です」
年配の重臣が
じろりと睨む。
「割を食った側と、
救われた側のあいだに
立てるつもりか?」
猿は肩をすくめる。
「いえいえ。
某はただ、
皆さまに嫌われすぎぬよう
必死なだけで」
「嫌われすぎると、
戦場で誤って背中を突かれかねませんからなぁ」
また、
笑いが起きる。
◆◆さりげない気遣い
しばらく他愛ない話を続け、
猿は立ち上がった。
「そうだ。
先ほど、南の商人から
珍しい茶が入りました」
「殿がお下がりをくださりまして」
「もしよろしければ、
後ほど一服いかがです?」
「戦の話抜きで。
昔の武勇譚でも
聞かせていただければ嬉しい」
年配の重臣は鼻を鳴らした。
「……おだてても
語らんぞ」
「では、
茶がまずかったということで」
「誰がそんなことを言った」
不機嫌そうに言いながらも、
好奇心が隠せていない。
(こうやって、
口実を作って
距離を詰めるのか)
誰かが心の中でそう呟いた。
◆◆さくらの目
廊下の端から、
さくらはその一部始終を見ていた。
(人たらし、というのは
こういうことなのですね)
(自分の昇格が
誰かの胸に刺さることも分かっていて)
(その刺を、
笑いと礼で少しずつ丸めていく)
剣では届かないところへ、
猿は手を伸ばしている。
自分にはできないことだと
さくらは素直に認めていた。
(殿の実力主義は、
こういう者がいて
初めて国の中で回る)
(押し上げる手と、
押し上げられた者と、
それを見ている者)
そのあいだに
橋をかける人間。
それが、
この国で「猿」と呼ばれる男の
役目なのだろう。
嫉妬は消えない。
むしろ、
これからも生まれ続ける。
だが、
それを正面から殴り返すのではなく、
笑いと、頭を下げる姿勢と、
時に茶の一服で和らげていく。
実力主義の国は、
剣だけでは立たない。
人を繋ぎ止める、不格好な優しさが
その裏で、
静かに働いていた。




