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北の名門の領地へと続く街道。

まだ敵影は見えないが、空気だけが重くなっていた。


その時だった。


◆◆小豆の袋


本陣に、一つの包みが届いた。

差出人は――主君の妹。


小さな布袋。

中には、からり、と音を立てる小豆。


猿がそれを手に取った瞬間、

表情から笑みが消えた。


「……これは」


袋の口を締める二本の紐。

猿はそれを指で弾いた。


> 「小豆は我ら」

「袋を締める二本の紐は、妹君の夫と、北の名門」




静かな声だった。


「このまま進めば、

 両側から袋の口を絞られ、

 小豆のように押し潰される、ということ」


陣中の空気が凍りついた。


◆◆暗号の意味


主君は袋を手に取り、

しばし黙した。


(妹は、

 夫がこちらを裏切ったと

 遠回しに知らせている)


(それも、

 名門と歩調を揃えて)


猿が言葉を継ぐ。


「妹君は、

 夫と名門が組んだことを隠せぬ方」


「しかし、

 あからさまな書状は届かない」


「だからこそ、この小豆」


「進めば必ず挟み撃ち。

 前にも後ろにも逃げ道は消える」


進軍すれば、

地形の狭い谷間に入る。


そこで前から名門、

背後から婿殿の軍。


それは、

軍そのものの壊滅を意味していた。


◆◆決断


主君は袋を握りしめ、

ぽつりと言った。


「退く」


誰かが息を呑む。


「進めば、

 国そのものを賭けることになる」


「余が討たれるならまだ良い。

 だが猿も、さくらも、

 この軍も失えば――

 天下どころか、

 国が消える」


退却。

それは敗北ではない。


“国を残す選択”。


だが、問題は一つ残る。


◆◆殿しんがりという役目


退くとなれば、

必ず追撃が来る。


名門か、

婿殿か、

あるいは両方。


軍を無事に退かせるには、

背を預ける者が必要だ。


殿。

最後尾に立ち、

敵の追撃を受け止める役。


もっとも危険で、

もっとも報われない役。


敗走のたびに名だけが残り、

多くはその場で消える。


重臣の誰もが、

口を噤んだ。


(やりたくない――)

(だが口には出せない)


ただ沈黙が、

陣幕の中を満たす。


◆◆最初に手を挙げた者


「では、某が」


沈黙を破ったのは猿だった。


扇子を膝の前で畳み、

あっさりと頭を下げる。


「殿を務めましょう」


驚愕が走る。


「猿が?!」

「おぬしにできるのか?!」


猿は淡々としていた。


「逃げる路を選んだのは我らです」


「ならば、

 逃げるための最後の支払いも、

 誰かが引き受けねばならぬ」


(こういう時に前に出られぬ者は、

 大事な場面で

 “前に出ろ”と言う資格がない)


猿の胸の奥には

そんな冷たい理が、

ごく静かに燃えていた。


◆◆二つ目の手


その時だった。


「……ならば、私も」


少し遅れて、

さくらが手を挙げていた。


本当に、

誰もが息を呑んだ。


「さくら……?」


彼女は、

まるで自分の当然の位置を

確認するかのように言う。


> 「殿は、

 もっとも敵が集まる場所です」




> 「もっとも刃が必要な場所でもあります」




> 「ならば、

 刃が赴くべきところでしょう」




それは

死を恐れぬ覚悟の言葉ではなかった。


役目を選ぶ者の言葉。


彼女にとって、

殿は罰でも栄誉でもない。


「そこに刃が必要なら、

 私が行きます」


ただそれだけだった。


◆◆陣の空気


猿と、さくら。


主君の視線が、

二人に向けられる。


火花は、

これからだった。


――

殿を一人にするのか、

二人で立つのか。

あるいは、

別の手を打つのか。


だがその前に、

はっきりしていることが一つあった。


> この軍には、

 死地に自ら歩いて行く器を持つ者が

 二人いる。




その事実だけが、

重く、

静かに陣中を満たしていた。


---


殿しんがりを二人で務める──

その決定が下された時、

陣中の空気は、妙な静けさに包まれた。


誰も声を荒げない。

ただ、息だけが重い。


◆◆配置


退却路は、すでに決まっていた。

山と川に挟まれた、緩やかな坂道。


細く、長く、

追撃がかかりやすい。


そこを本隊が抜け切るまで、

誰かが、後ろを押さえ続けなければならない。


「殿は我ら二人で務めます」


さくらが淡々と言う。


猿は隣で、

いつもの軽い笑みを浮かべたまま、


「某は、

 逃げる方の尻を叩く役でござる」


と、あえて軽口を足した。


緊張を割るための、

それなりに計算された軽さだった。



◆◆出立前のひととき


本隊はすでに動き始めている。

荷駄が鳴り、

槍の列が遠ざかる。


さくらと猿は、

まだ静かな街道に残っていた。


斜面を見下ろせば、

谷底の川が細い音を立てている。


「……本当に来ますかね」


猿がぽつりと言う。


「挟み撃ちをしようとしたのなら、

 必ず追ってきます」


さくらは即答だった。


「袋が締められなかった腹いせに」


猿は肩をすくめる。


「まあ、

 人は失敗の尻拭いを

 他人の血でやりたがるものです」


その言い方に、

自分自身への皮肉が

少しだけ混じっていた。



◆◆役割分担


坂道の途中に、

小さな膨らみがある。


そこに、

小隊ほどの兵を残すことにした。


逃げ足の速い者ではなく、

「ここに残る」と言った者たち。


猿は一人一人の顔を見て、

名前を呼んでから配置を決めていった。


「お前は、いざとなれば

 さくら殿の背で死ぬ役」


「お前は、矢を全部使い切る役」


「お前は……

 最後に火を放つ役」


軽口めいた調子で言うが、

目だけは笑っていない。


(この中から、

 何人が生きて坂を下れるか)


(半分いれば上出来)


猿は自分の計算に

自分でうんざりしながら、それでも手を止めなかった。


さくらは黙って耳を傾けていた。


(この男は、

 人を駒と思っているわけではない)


(駒として「並べざるを得ないこと」を

 よく知っているだけ)



◆◆二人きりの短い会話


配置を終え、

兵たちが息を整える間。


さくらが、

ふいに猿の横顔を見た。


「……逃げませんね、あなたは」


猿は目を丸くして笑う。


「逃げるなら、

 もっと上手く逃げますよ」


「殿なんて、

 一番逃げにくい場所じゃないですか」


さくらはほんの少しだけ、

口元を緩めた。


「なら、なぜ手を挙げたのです」


猿は空を見上げる。


「この戦、

 “あ、負けたな”と思った瞬間から」


「誰が殿をやるかで、

 この国の先行きが決まると思いまして」


静かに続ける。


「殿を押し付け合う国は、

 いずれ崩れます」


「殿を奪い合う国は──

 まだ先があります」


さくらは一呼吸おいてから、言った。


「だから、私も手を挙げました」


「刃として、

 その先を見たかったので」


二人は顔を見合わせず、

同じ方向を見ていた。


坂の下。

敵が現れる方角。



◆◆追撃、始まる


やがて、

馬のいななきと鉄の匂いが

風に混じりはじめた。


遠見の兵が声を上げる。


「旗……来ます!」


見覚えのある紋。

妹の婿殿の国の旗。


それに混じり、

北の名門の旗も見え隠れしている。


(やはり、両方か)


さくらは大太刀の柄に手を置いた。


猿が兵たちに声を張る。


「いいか!」


「我らは勝つ必要はない!

 本隊が逃げ切るまで、

 立っていればいい!」


「死ぬのも構わんが、

 “間に合わぬ死に方”だけはするな!」


妙な叱咤だった。

だが兵の顔から、

少しだけ顔色が戻る。


(死ぬのは怖い)


(けれど、「意味のある死」だと

 思えれば……少しだけ足が前に出る)


さくらは横目に猿を見た。


(やはり、この男……

 人の心の間合いを読む)



◆◆開戦


先頭の騎馬が坂を駆け上がってくる。

槍を構え、吠えながら。


さくらは一歩、前へ出た。


その瞬間、

追撃隊の先頭が一瞬ひるむ。


「……女……?」


「いや、あれは……」


噂は既に届いていた。


都を開き、

南を沈めた“鬼娘”。


さくらは大太刀を抜いた。


一振り。

近づきすぎた騎馬の鎧ごと

斜めに裂ける。


血飛沫の描写の前に、

先頭の列が崩れた。


「止まれ!」

「詰まるな!」


悲鳴に近い号令が響く。


後ろから押され、

前は止まり、

列がもつれあう。


そこへ、

後方から猿の声が飛ぶ。


「弓! 間詰めるな、間を狙え!」


残された矢が

乱れた隊列へ沈む。


きれいな戦でも、

立派な勝ちでもない。


ただ、


時間を稼ぐ戦。



◆◆殿としての二人


さくらは

正面からくる者だけを斬った。


深追いしない。

追わない。

崩しもしない。


「前に出ようとする者だけを、

 落とします」


それだけを徹底していた。


猿は、

兵の肩を叩き、

逃げるタイミングと抑えるタイミングを

細かく指示し続けた。


冗談を混ぜる余裕は、

もうなかった。


(ここで崩れれば、

 一気に呑まれる)


(ここで粘れれば、

 本隊は山を越える)


兵の息が荒くなり、

矢も尽きかける。


敵の数はまだ尽きない。


それでも、

坂の向こうに薄く、

退却する軍勢の影が見えた。



◆◆退き際


やがて猿が、

さくらの背に向かって叫んだ。


「そろそろ、

 よろしいのでは!」


「本隊は、

 もう見えぬところまで行きました!」


さくらは息を一つ吐き、

大太刀をひときわ大きく振るった。


前列が怯え、

さらに数歩下がる。


その隙間で、

彼女はくるりと背を向けた。


「下がります」


兵たちが一斉に坂を駆け下りる。


猿は最後まで残り、

あえて敵の顔をまじまじと見てから

踵を返した。


(この表情……

 悔しさと、恐れと、

 どこか安堵が混じっている)


(追いきれなかったことへの悔しさと、

 “これ以上鬼娘に関わりたくない”という安堵)


猿は小さく笑った。


「これなら、

 しつこく追っては来ますまい」



◆◆殿、終わる


坂を下り切ったところで、

ようやく二人は足を止めた。


兵たちは

肩で息をしながら、

まだ振り返ろうとしない。


さくらは

一度だけ坂の上を見た。


敵の姿は、

もう追ってこない。


風の向きが変わる。


(……退却は、成功しました)


猿が隣で、

へたり込みそうな足を

無理やり支えながら笑う。


「ね、さくら殿」


「殿も、

 やってみると悪くないでしょう」


さくらは少しだけ考えてから、

短く答えた。


「……悪くはありませんでした」


「生きて戻れたなら」


その言葉に、

残っていた兵たちの肩が

一斉に落ちる。


笑いとも、泣きともつかない息が漏れた。


退却の殿。

名誉でも栄光でもない。


ただ「次」が繋がったという事実だけが、

そこにあった。

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