54
北の名門の領地へと続く街道。
まだ敵影は見えないが、空気だけが重くなっていた。
その時だった。
◆◆小豆の袋
本陣に、一つの包みが届いた。
差出人は――主君の妹。
小さな布袋。
中には、からり、と音を立てる小豆。
猿がそれを手に取った瞬間、
表情から笑みが消えた。
「……これは」
袋の口を締める二本の紐。
猿はそれを指で弾いた。
> 「小豆は我ら」
「袋を締める二本の紐は、妹君の夫と、北の名門」
静かな声だった。
「このまま進めば、
両側から袋の口を絞られ、
小豆のように押し潰される、ということ」
陣中の空気が凍りついた。
◆◆暗号の意味
主君は袋を手に取り、
しばし黙した。
(妹は、
夫がこちらを裏切ったと
遠回しに知らせている)
(それも、
名門と歩調を揃えて)
猿が言葉を継ぐ。
「妹君は、
夫と名門が組んだことを隠せぬ方」
「しかし、
あからさまな書状は届かない」
「だからこそ、この小豆」
「進めば必ず挟み撃ち。
前にも後ろにも逃げ道は消える」
進軍すれば、
地形の狭い谷間に入る。
そこで前から名門、
背後から婿殿の軍。
それは、
軍そのものの壊滅を意味していた。
◆◆決断
主君は袋を握りしめ、
ぽつりと言った。
「退く」
誰かが息を呑む。
「進めば、
国そのものを賭けることになる」
「余が討たれるならまだ良い。
だが猿も、さくらも、
この軍も失えば――
天下どころか、
国が消える」
退却。
それは敗北ではない。
“国を残す選択”。
だが、問題は一つ残る。
◆◆殿という役目
退くとなれば、
必ず追撃が来る。
名門か、
婿殿か、
あるいは両方。
軍を無事に退かせるには、
背を預ける者が必要だ。
殿。
最後尾に立ち、
敵の追撃を受け止める役。
もっとも危険で、
もっとも報われない役。
敗走のたびに名だけが残り、
多くはその場で消える。
重臣の誰もが、
口を噤んだ。
(やりたくない――)
(だが口には出せない)
ただ沈黙が、
陣幕の中を満たす。
◆◆最初に手を挙げた者
「では、某が」
沈黙を破ったのは猿だった。
扇子を膝の前で畳み、
あっさりと頭を下げる。
「殿を務めましょう」
驚愕が走る。
「猿が?!」
「おぬしにできるのか?!」
猿は淡々としていた。
「逃げる路を選んだのは我らです」
「ならば、
逃げるための最後の支払いも、
誰かが引き受けねばならぬ」
(こういう時に前に出られぬ者は、
大事な場面で
“前に出ろ”と言う資格がない)
猿の胸の奥には
そんな冷たい理が、
ごく静かに燃えていた。
◆◆二つ目の手
その時だった。
「……ならば、私も」
少し遅れて、
さくらが手を挙げていた。
本当に、
誰もが息を呑んだ。
「さくら……?」
彼女は、
まるで自分の当然の位置を
確認するかのように言う。
> 「殿は、
もっとも敵が集まる場所です」
> 「もっとも刃が必要な場所でもあります」
> 「ならば、
刃が赴くべきところでしょう」
それは
死を恐れぬ覚悟の言葉ではなかった。
役目を選ぶ者の言葉。
彼女にとって、
殿は罰でも栄誉でもない。
「そこに刃が必要なら、
私が行きます」
ただそれだけだった。
◆◆陣の空気
猿と、さくら。
主君の視線が、
二人に向けられる。
火花は、
これからだった。
――
殿を一人にするのか、
二人で立つのか。
あるいは、
別の手を打つのか。
だがその前に、
はっきりしていることが一つあった。
> この軍には、
死地に自ら歩いて行く器を持つ者が
二人いる。
その事実だけが、
重く、
静かに陣中を満たしていた。
---
殿を二人で務める──
その決定が下された時、
陣中の空気は、妙な静けさに包まれた。
誰も声を荒げない。
ただ、息だけが重い。
◆◆配置
退却路は、すでに決まっていた。
山と川に挟まれた、緩やかな坂道。
細く、長く、
追撃がかかりやすい。
そこを本隊が抜け切るまで、
誰かが、後ろを押さえ続けなければならない。
「殿は我ら二人で務めます」
さくらが淡々と言う。
猿は隣で、
いつもの軽い笑みを浮かべたまま、
「某は、
逃げる方の尻を叩く役でござる」
と、あえて軽口を足した。
緊張を割るための、
それなりに計算された軽さだった。
◆◆出立前のひととき
本隊はすでに動き始めている。
荷駄が鳴り、
槍の列が遠ざかる。
さくらと猿は、
まだ静かな街道に残っていた。
斜面を見下ろせば、
谷底の川が細い音を立てている。
「……本当に来ますかね」
猿がぽつりと言う。
「挟み撃ちをしようとしたのなら、
必ず追ってきます」
さくらは即答だった。
「袋が締められなかった腹いせに」
猿は肩をすくめる。
「まあ、
人は失敗の尻拭いを
他人の血でやりたがるものです」
その言い方に、
自分自身への皮肉が
少しだけ混じっていた。
◆◆役割分担
坂道の途中に、
小さな膨らみがある。
そこに、
小隊ほどの兵を残すことにした。
逃げ足の速い者ではなく、
「ここに残る」と言った者たち。
猿は一人一人の顔を見て、
名前を呼んでから配置を決めていった。
「お前は、いざとなれば
さくら殿の背で死ぬ役」
「お前は、矢を全部使い切る役」
「お前は……
最後に火を放つ役」
軽口めいた調子で言うが、
目だけは笑っていない。
(この中から、
何人が生きて坂を下れるか)
(半分いれば上出来)
猿は自分の計算に
自分でうんざりしながら、それでも手を止めなかった。
さくらは黙って耳を傾けていた。
(この男は、
人を駒と思っているわけではない)
(駒として「並べざるを得ないこと」を
よく知っているだけ)
◆◆二人きりの短い会話
配置を終え、
兵たちが息を整える間。
さくらが、
ふいに猿の横顔を見た。
「……逃げませんね、あなたは」
猿は目を丸くして笑う。
「逃げるなら、
もっと上手く逃げますよ」
「殿なんて、
一番逃げにくい場所じゃないですか」
さくらはほんの少しだけ、
口元を緩めた。
「なら、なぜ手を挙げたのです」
猿は空を見上げる。
「この戦、
“あ、負けたな”と思った瞬間から」
「誰が殿をやるかで、
この国の先行きが決まると思いまして」
静かに続ける。
「殿を押し付け合う国は、
いずれ崩れます」
「殿を奪い合う国は──
まだ先があります」
さくらは一呼吸おいてから、言った。
「だから、私も手を挙げました」
「刃として、
その先を見たかったので」
二人は顔を見合わせず、
同じ方向を見ていた。
坂の下。
敵が現れる方角。
◆◆追撃、始まる
やがて、
馬のいななきと鉄の匂いが
風に混じりはじめた。
遠見の兵が声を上げる。
「旗……来ます!」
見覚えのある紋。
妹の婿殿の国の旗。
それに混じり、
北の名門の旗も見え隠れしている。
(やはり、両方か)
さくらは大太刀の柄に手を置いた。
猿が兵たちに声を張る。
「いいか!」
「我らは勝つ必要はない!
本隊が逃げ切るまで、
立っていればいい!」
「死ぬのも構わんが、
“間に合わぬ死に方”だけはするな!」
妙な叱咤だった。
だが兵の顔から、
少しだけ顔色が戻る。
(死ぬのは怖い)
(けれど、「意味のある死」だと
思えれば……少しだけ足が前に出る)
さくらは横目に猿を見た。
(やはり、この男……
人の心の間合いを読む)
◆◆開戦
先頭の騎馬が坂を駆け上がってくる。
槍を構え、吠えながら。
さくらは一歩、前へ出た。
その瞬間、
追撃隊の先頭が一瞬ひるむ。
「……女……?」
「いや、あれは……」
噂は既に届いていた。
都を開き、
南を沈めた“鬼娘”。
さくらは大太刀を抜いた。
一振り。
近づきすぎた騎馬の鎧ごと
斜めに裂ける。
血飛沫の描写の前に、
先頭の列が崩れた。
「止まれ!」
「詰まるな!」
悲鳴に近い号令が響く。
後ろから押され、
前は止まり、
列がもつれあう。
そこへ、
後方から猿の声が飛ぶ。
「弓! 間詰めるな、間を狙え!」
残された矢が
乱れた隊列へ沈む。
きれいな戦でも、
立派な勝ちでもない。
ただ、
時間を稼ぐ戦。
◆◆殿としての二人
さくらは
正面からくる者だけを斬った。
深追いしない。
追わない。
崩しもしない。
「前に出ようとする者だけを、
落とします」
それだけを徹底していた。
猿は、
兵の肩を叩き、
逃げるタイミングと抑えるタイミングを
細かく指示し続けた。
冗談を混ぜる余裕は、
もうなかった。
(ここで崩れれば、
一気に呑まれる)
(ここで粘れれば、
本隊は山を越える)
兵の息が荒くなり、
矢も尽きかける。
敵の数はまだ尽きない。
それでも、
坂の向こうに薄く、
退却する軍勢の影が見えた。
◆◆退き際
やがて猿が、
さくらの背に向かって叫んだ。
「そろそろ、
よろしいのでは!」
「本隊は、
もう見えぬところまで行きました!」
さくらは息を一つ吐き、
大太刀をひときわ大きく振るった。
前列が怯え、
さらに数歩下がる。
その隙間で、
彼女はくるりと背を向けた。
「下がります」
兵たちが一斉に坂を駆け下りる。
猿は最後まで残り、
あえて敵の顔をまじまじと見てから
踵を返した。
(この表情……
悔しさと、恐れと、
どこか安堵が混じっている)
(追いきれなかったことへの悔しさと、
“これ以上鬼娘に関わりたくない”という安堵)
猿は小さく笑った。
「これなら、
しつこく追っては来ますまい」
◆◆殿、終わる
坂を下り切ったところで、
ようやく二人は足を止めた。
兵たちは
肩で息をしながら、
まだ振り返ろうとしない。
さくらは
一度だけ坂の上を見た。
敵の姿は、
もう追ってこない。
風の向きが変わる。
(……退却は、成功しました)
猿が隣で、
へたり込みそうな足を
無理やり支えながら笑う。
「ね、さくら殿」
「殿も、
やってみると悪くないでしょう」
さくらは少しだけ考えてから、
短く答えた。
「……悪くはありませんでした」
「生きて戻れたなら」
その言葉に、
残っていた兵たちの肩が
一斉に落ちる。
笑いとも、泣きともつかない息が漏れた。
退却の殿。
名誉でも栄光でもない。
ただ「次」が繋がったという事実だけが、
そこにあった。




