5.仕える男と戦の匂い
――翌朝。
白い霞が庭の端に漂い、
竹の葉に露が光る。
その静かな時刻、
昨日の決闘を見ていた若侍が、
石畳の上で深く頭を下げていた。
「……願いがございます」
さくらは竹刀を拭い、
振り向いた。
若侍の背筋は震えていない。
恐れより、
何か別の熱がそこにある。
「稽古をつけていただけないでしょうか」
その声は、
屈みでも虚勢でもなかった。
さくらは少しだけ目を細めた。
(珍しい)
今まで挑む者は多かったが、
学ぼうとする者は少なかった。
「理由は?」
若侍は息を吸い、
迷わず答えた。
「昨日、あなたは殺せたのに、殺さなかった。
……力だけではない何かがあると、
そう思いました」
その言葉に、風が一瞬止んだように感じる。
侍の瞳は真っ直ぐで、
そこには嫉妬も劣等もなく、
ただ知りたいという衝動があった。
さくらは木刀を握り直す。
「稽古は構わない。
ただ――」
視線が鋭くなる。
「私の技は、
体裁を整えるためのものではありません」
若侍は一歩進み出て、
膝をついた。
「承知しております」
その態度が、
妙に静かで美しかった。
さくらは頷いた。
「では」
小さな木刀を手渡す。
若侍は一瞬驚く。
子供の稽古用の寸法。
「……この長さで?」
「この長さで、
人は倒せます」
昨日の決闘の光景が、
若侍の頭に蘇った。
(確かに……)
さくらは庭の中央に立った。
「構えてみなさい」
若侍が構えた瞬間、
さくらの動きは柔らかかった。
殺気も威圧もない。
ただ、
風の向きを感じているような静謐さ。
「力ではない」
彼女は言う。
「相手がどこに立っているかを知ること。
それが剣です」
若侍の眉が動く。
(位置……?)
「あなたは強くなりたいのでしょう。
ならば、“斬る前に勝つ”ことを覚えてください」
その一言が、
若侍の胸に深く落ちた。
(……自分が見ていたのは、
ただの力だけだった)
稽古は始まる。
さくらの匂いは淡く漂い、
若侍の耳と心を乱す。
彼はそれに気づきながら、
揺らぎを制する術も含めて、
これが稽古なのだと悟り始める。
――彼女の教えは、
剣だけでは終わらない。
それを知った瞬間、
彼の人生の軌道が静かに変わった。
---
――数日が過ぎた。
稽古は毎朝、
人目の薄い裏庭で行われた。
若侍は初めの一太刀から、
すでに何かが狂い始めていた。
その日、
さくらは言った。
「遠慮は要りません。
全てを込めなさい」
若侍は深呼吸し、
木刀を握り直す。
稽古用とはいえ、
全力で振れば骨を砕く力はある。
人を殺せることを知っている。
彼は踏み込んだ。
低い唸りとともに、
全身が跳躍のように伸びる。
その瞬間――
「……遅い」
さくらは素手で受けた。
木刀の刃の部分を、
手のひらと指だけで挟むように止める。
衝撃は地面に響き、
若侍の肩が痺れた。
(な……)
力が違うのではない。
感覚が違う。
さくらの腕は細い。
だが、
“止める”という意志の一点で成立していた。
「力で勝つことは、
剣ではない」
淡々と言って、
木刀を押し返すでもなく、
そっと解いた。
若侍は言葉を失ったまま、
呼吸を整える。
その時、
風がさくらの横を抜け、
ほんの淡い香りが漂った。
(……匂い)
昨日までは、
集中を乱す要素だったそれが――
気づけば、
落ち着きを与える香に変わっていた。
恐ろしさではなく、
そこに在るものとして好ましい。
初めて、
剣の理と、
この女の存在の香が
一つに感じられた瞬間だった。
(この人は……)
人間離れした力。
人の境界を揺らす匂い。
だがそれを、
自らの誇示としてではなく、
ただ淡々と“使っている”。
若侍の胸に、
理解ではなく――
帰属の芽が生まれる。
彼は膝をついた。
「……さくら殿。
私に、仕えることをお許し願いたい」
それは家中のしきたりから逸脱した言葉。
だが抑えきれなかった。
さくらは木刀を立て、
静かに眺めた。
(……忠誠か)
宿命でもない、
縁でもない。
ただ、
今この瞬間に
この男の心が“帰る”場所を選んだだけ。
さくらは言葉を返さず、
空を見上げた。
「……好きにしなさい」
淡い、
だが確かな承認。
若侍は深く頭を垂れた。
その背中が、
従者ではなく
“自分の剣を捧げる者の背中”になっていた。
家中の力学はまたひとつ変わった。
ただし、
さくらはそれを政治とは見なさない。
(勝手に付いて来る者は、
勝手に使えばいい)
そう思いながら立つ彼女の背を、
若侍はまっすぐに見つめていた。
匂いも力も、
もはや彼にとって
“人を惹きつける女の証”ではなく――
従うべき強者の象徴へと変わっていた。
---
――忠誠の芽が生まれたことを、
城は意外なほど早く嗅ぎつけた。
言葉にしないが、
城というものは“力の流れ”に敏い。
◆大名の座敷
夕刻、
大名は地図を広げていた。
墨で記された村、砦、税路。
その一点に小さな赤丸が付けられる。
「ここが、近頃荒れておる」
家老が頭を垂れる。
「隣領の小勢がちょっかいを出し、
村々が揺れ始めています。
警備の増派を――」
殿は手を挙げ、
その声を切った。
「……いい機会だ」
家老が顔を上げる。
「さくらを使う」
その声音には、
企みと愉悦が滲んでいる。
「戦場で動かしてみねば、
あれが“使える異物”か、
ただの奇矯な女か――
わからぬ」
側侍の一人が息を詰める。
「しかし殿、
戦場は……
あの匂いが味方に作用するやもしれませぬ」
殿は笑った。
「ならばよい。
乱される者は、所詮その程度よ」
茶器を置き、
障子越しの空を眺める。
「戦とは、
均衡を乱せる者が勝つものだ」
家老は黙して頷く。
「さくらに一小隊を付け、
村の情勢を見させろ。
剣を抜かせるか否かは、あやつに任せる」
◆政治の裏
家老は内心で理解した。
殿はただ興味で動いているのではない。
――この異物が、
家中を揺らし始めている。
側侍が忠誠を誓い、
敗れた者が語り、
噂が膨らむ。
それは力の核だ。
殿はそれを、
戦場という現実の中で確かめたい。
死地で輝くか、
散って終わるか。
どちらでも、
家に利益はある。
◆若侍の影
大名は何気なく、
その横に控えていた若侍を視界に入れた。
「……あの者、さくらに近づいたか」
家老が頷いた。
「はい。
稽古を受け、
忠誠を示している模様」
殿は愉しげに薄笑いした。
「ならば連れて行かせろ。
従う者の価値は、
その主の価値で測れる」
地図に指を置き、
赤丸を軽く叩く。
「荒野で火を点ける。
――あやつがどんな炎なのか、
見てやろう」
風が障子を揺らす。
その音が、
戦の始まりを告げているようだった。
翌朝――
さくらには、
戦支度の命が下される。
匂いと剣が、
初めて領外の空気に晒される。




