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◆◆猿の方角──敵国
猿が向かった先は、
飾り立てられた城門を持つ大名の居城。
賓客として迎えられ、
愚物の大名は
猿を「築城の名人」と勘違いし
歓待した。
猿は笑って酒を受け、
礼を尽くし、
その裏で――
家臣たちの眼を見ていた。
(……やはり)
大名の宴に集う重臣たちの眼は
死んでいた。
(この国は、
主君を支えたい者ではなく、
“支えねば国が死ぬから仕方なく支えている者”だ)
猿は扇子を閉じ、
ゆっくりと笑った。
「さて、
割り時ですな」
◆◆国境の砦──さくら
その頃、
さくらは砦の上で
遠くの煙を眺めていた。
敵国の部隊が
国境を窥い、
士気を上げようと訓練している。
さくらの存在は
まだ敵に知られていない。
だが
敵がこちらを見た瞬間――
桃の香が
風に乗り、
兵士の眉が動いた。
「……噂の鬼娘か?」
「いや、違う。
あれは……普通に立っているだけだ」
「匂いが……」
不安の芽が芽吹く。
さくらは思う。
(猿殿が人を動かしている間――
私は兵の心を潰す)
大太刀の柄に指が触れた瞬間、
敵の訓練兵が三人、
気配に飲まれ転倒した。
(始まっていますね)
◆◆敵国──猿の調略
猿は酒席を抜け、
軍師のもとに案内される。
その軍師は痩せ、
目だけが光っていた。
猿が酒を注ぐ。
「国を支えているのは
あなたでしょう」
軍師の目が動いた。
「主君は愚物だ」
猿は笑わない。
「あなたが支える理由は
『この国を見捨てれば民が死ぬ』から」
軍師の呼吸が止まる。
「その苦悩を
理解できる者のところへ
来ませんか?」
「民を死なせぬために」
軍師は唇を噛んだ。
「……その器が
そなたの国にあるか?」
猿は静かに言う。
「ある。
私と、
鬼の刃が立つ国だ」
軍師の目が
生気を取り戻していく。
(この男は、
我が国に来る)
猿は確信した。
◆◆砦──さくら
敵の部隊が国境線で
無理に演説を始めた。
「我らは強い!
今度こそ国境を越え――」
その声が
途中で止む。
さくらが
砦から僅かに姿を現した。
大太刀の影が
陽の光を切り裂く。
敵兵がざわつく。
「……誰だ……?」
「動くな」
「見たら死ぬぞ」
士気が崩れた証拠だ。
◆◆敵国──猿
猿は今度、
三人衆を迎えに行く。
「あなたがたは
愚主を支え続けることで
何を守っています?」
三人衆は黙する。
猿は扇子で城の屋根を指す。
「崩れる城を支えるか」
「新しい城を築くか」
その言葉に
三人の眉が動いた。
猿は去り際に
静かに囁いた。
「愚主は、
あなたがたを国の歯にせず、
鎖にしている」
「来るべきものが来る時、
私は再び参る」
扇子が閉じられた音が
彼らの心に残った。
◆◆国境──さくら
敵が
全軍退いた。
攻めでも撤退でもなく――
“あそこに立っていたくない”
という理由で。
砦の兵たちは
奇妙な沈黙で
その事実を受け取っていた。
◆◆猿、帰国
馬に揺られながら
猿は小声で笑っていた。
(調略は動いた)
(あの国の軍師は
こちらに来る)
(そして三人衆も
国を見限る)
(あとは、
さくら殿が
国境で兵心を折っていれば、
戦わずして崩れる)
その頃、砦では
さくらが空を見上げていた。
(猿殿は、
人の刃で戦うのですね)
(私は刃の刃で戦う)
二つの戦場が
異なる刃で同じ目的へ進んでいた。
――この国が
“天下の計”へ歩み出した瞬間だった。
◆◆時は過ぎ、
霧の季節が訪れる。
猿の調略は
噂ではなく実となり、
敵国の北の城、
東の砦、
南の宿城――
順に開城、あるいは寝返りが起き、
城は落ちていった。
争いではなく、
城主と兵の心が折れていった。
さくらが砦で
刀を置いて立つだけで
敵兵は退き、
猿が言葉を置くだけで
城主は城門を開けた。
◆◆そして残ったのは、一つ。
大名が籠る山上の堅城。
城郭は険しく、
道は曲がり、
石垣は厚い。
だがそれ以上に重要なのは――
その城に残されているのが
“大名の愚かさ”だけだということ。
戦えぬ主君、
判断できぬ主君、
そして今や、
支える重臣がいない主君。
猿の調略は、
武力よりも凄まじい戦果を
積み上げていた。
◆◆国境の砦、
噂が届く。
兵たちはざわついた。
「……残りは大名の城だけか」
「あそこが落ちれば……
この戦は終わりか?」
さくらは砦の上で
城下を眺めつつ、静かに言った。
> (いえ――
始まりです)
◆◆主君のもとに
猿が戻ってきた。
扇子をたずさえ、
評定の間へ入る。
主君が問う。
「猿、
残るは山の城のみとなったか」
猿は深く頭を下げた。
「ははっ」
「城は落ちぬでしょう。
籠る主君が、
城を開ける気配がない」
「ですが――」
扇子で盤面を叩く。
「城主が孤立し、
城に入れてくれる味方がおらぬ城は
城ではありません。」
評定の面々がざわめく。
猿は続けた。
「力攻めはできます。
だが今日の戦は
もはや力の戦いではござらん」
「敵の心はすでに折れている」
主君の眉がわずかに動く。
「では、どう落とす」
猿は笑う。
「落ちるのを
待つのです」
◆◆評定が終わった後、
猿がさくらを呼んだ。
「さくら殿」
「そなたに一つ頼みたい」
さくらは静かに頷いた。
「どこへ行けばいいのです」
猿は山の方向を指した。
「城のふもとに立っていただきたい」
「刃は抜かずとも良い」
「ただ――
その匂いを置いてきてほしい」
さくらの目がわずかに細くなる。
(……なるほど)
猿は囁くように言った。
「籠城戦とは
外からの圧だけではない」
「中に閉じこもる者の
“自分の未来への恐怖”が
扉を開けます」
「あなたの存在が
未来を無くすのです」
◆◆山城のふもと
霧の中、
さくらは立った。
ただ立っているだけ。
桃の匂いは
風に乗り、
斜面を這い上がり、
城の石垣を越え、
天守の板戸に届く。
城兵はざわめく。
「……あの鬼娘が来ているらしい」
「匂いが……」
「戦わずして城が落ちるぞ……」
恐怖は伝播し、
兵たちの足が冷える。
主君は
叫び散らした。
「戦え!
戦わぬ者は処罰する!」
だが、
兵が戦意を持たない軍は
命令を受けない。
誰も城門を開かない。
誰も挑もうとしない。
誰も進まない。
なぜなら――
> 外にいるのは
鬼娘だと知っているから。
◆◆そして、
“その日”が来た。
城主は
城門を開けず、
城兵に見捨てられ、
夜のうちに逃げ出した。
朝、
門が開かれ、
白旗が掲げられる。
戦いはなかった。
ただ、
心が潰れた。
山城の開城。
◆◆国へ戻る報告
猿の前には
主君が静かに座る。
「猿」
猿は頭を下げた。
「城は落ちました」
主君は深く息をつき、
「人の心を動かす戦い……
恐ろしいものだ」
猿は笑みもせず、言った。
「恐ろしいのは、
刃と理の両方が揃った国です。」
◆◆さくらが砦へ戻ると
兵たちは静かに頭を下げた。
(戦わずして落ちた)
(その力を知ったのだ)
さくらは
誰にも語らず、
ただ空を見た。
> (戦は終わりました)
> (ですが……
これが始まりです)
この国は、
本当の戦国に足を踏み入れた。
天下の形が
静かに、しかし確実に
動き始めていた。




