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広間は質素だった。
黄金も、虚飾もない。
しかし空気の密度だけが異様だった。
――その中心に、男はいた。
◆◆第一印象
噂で聞いた
「うつけ」
という滑稽な像は、
そこには微塵もない。
整えられた機能的な装束、
無駄のない立ち姿、
鋭く研ぎ澄まされた目つき。
まるで
戦場そのものを背負った人間のよう。
そして何より――
覇気。
空間がその男の呼吸に支配されている。
さくらの足が
知らずのうちに半歩、下がる。
(……本能が
この方を上と認めている)
わずかな驚きが
胸の奥で静かに広がった。
◆◆その時、男が口を開いた。
声は穏やかだった。
だが内容は穏やかではない。
「女人でありながら
その刃を保ち続けたこと」
「その力を自身の意志で振るい、
己の価値を選んだこと」
「その行いこそ、
この国が欲していた理である」
文章ではない。
まるで判決。
鋭さ。
整然とした考え。
遠い視野。
(……この方は
未来を見ている)
今の利益でもなく、
勝ち負けの表面でもなく、
この国の先――
さらにその先の世界を。
◆◆さくらの確信
(この方は、
仕えるに足りる主君だ)
その確信は、
思考ではなく身体の反応だった。
背中の筋肉が緩む。
喉の奥が熱くなる。
(ここでなら、
私の刃は腐りません)
◆◆男は続けた。
「女であることを隠さず、
その匂いすら隠せないまま
道を切り開いたと聞く」
さくらは微かに眉を動かす。
男の目は笑わない。
ただ、評価する。
「人の目を欺けない者の方が
国を欺かない」
「それは弱さではない。
正しさだ」
その一言で、
さくらの胸の奥が震える。
(……見抜かれた)
桃の匂いは呪いでも、弱点でもない。
偽れない存在である証。
それを否定せず、
価値として語る主君。
前の殿は
それを見抜くどころか
汚れとして押し付けてきた。
この男は違う。
(私が捨ててきたものを
価値として扱える器)
◆◆そして――男の本質が
もう一つ顔を出した。
「この国はまだ小さい」
「だが――
小さい国ほど、
牙を磨くことを忘れぬ」
覇気と知性。
未来と現実。
大胆と慎重。
全てが同時に立っていた。
(誰がこの方を
うつけと呼んだのです……)
(測れなかっただけ。
器が見えなかっただけ)
◆◆さくらの返答
自然と膝が折れていた。
頭が下がり、
胸から言葉が出る。
> 「――この方の刃になれれば、
私の人生は、生きる意味を得ます」
男は微かに頷き、言った。
「私の国には
刃が足りない」
「だが、刃を持つ者は多い」
「……その違いが
わかるか?」
さくらは迷いなく答える。
「刃は斬るだけのものではなく、
戦を整える理です」
男の目がわずかに笑う。
「ならば――
そなたは、
この国の刃だ。」
(――あぁ)
胸が熱い。
背負っていた重りが
外れる音がした。
殿に押し付けられた腐りも、
影の罰も、
全てが過去に落ちた。
この瞬間、
さくらは心の中で決めた。
> この主君のためなら、
私の刃は死んでも構わない。
それは忠誠ではなく、
剣士の誇り。
己の器が、
主君の器と
初めて一致した瞬間だった。
――男は、
面前に立つ女を眺めながら思う。
噂にあった
「鬼の娘」などという形容は、
粗雑すぎた。
この女は鬼ではない。
刃である。
◆◆
桃の匂いが漂う。
それは軍に混じれば乱れを生むものだろう。
だがこの匂いは、
媚びや誘惑ではない。
存在そのもの。
周囲を惑わせ、
理を乱し、
秩序の外に立たざるを得ない。
(ゆえに、この女は孤独だったのだろう)
戦で抜きん出、
その力は恐れられ、
その女の証は忌まれ、
誰の背にも置けない刃。
誰の心にも収まらない剣。
そしてその誇りは
誰の手でも曲げられない。
◆◆男は、
その背に乗る大太刀を見た。
常識を嘲るほどの長さ。
細身の女が持つべきではないもの。
扱えるわけがないもの。
しかし、
その刃を使いこなす姿は
戦場の伝報から
届いている。
(――力は虚しくない。
それは理で支えられていたのか)
男の目は静かに笑う。
彼女の剣は
怒りや情ではなく、
理と線で動いていた。
だからこそ、
前の主君を見限ったのだろう。
忠誠は力や恵みで与えるものではない。
“器”で与えるものだ。
(その器を疑うほど、
この女の剣は繊細だった)
◆◆男は口を開く。
「そなた──
戦を知りながら、
人の愚かさも同時に知っているな」
さくらの瞳がわずか揺れる。
(……見抜かれた)
男は続ける。
「刃は振るい方を間違えれば、
国を滅ぼす」
「そなたの過去の殿は、
刃の意味を誤った」
(だから刃は鈍り、
国が腐り始めた)
男は、
その構造を理解している。
器とは
政治の才でも、
軍の強さでもない。
“刃の意味を理解できる心”。
この女はそれを嗅ぎ分け、
自ら立ち去った。
ならば──
(この女の剣は
私の国に必要だ)
◆◆さくらを見る男の心には
ひとつの認識が生まれていた。
> ――この女は忠臣にはならない。
忠誠という言葉で縛れる者ではない。
恩からも、
褒美からも動かない。
この女が仕えるのは、
器だけ。
(だからこそ、使う価値がある)
器が腐れば
この女は離れ、
器が立てば
この女は命を賭ける。
そんな刃は
家臣ではなく、
国の試金石だ。
◆◆男の内心の言葉
> (この女が
私から離れる日が来るなら、
それは私の器が腐った証だ)
> (だからこそ、
この女は必要だ)
他の誰も言わないことを
言う者。
誰も見ない腐りを
嗅ぎ取る者。
誰も切れないものを
切る者。
(この女は、
私の天下の刃だ)
◆◆そして、
男の中の未来図に
ひとつ線が加わる。
> ――この国が天下を取った時、
その前線に立っているのは
この女だろう。
男は静かに言う。
「そなたの刃は
私の国に置いてゆけ」
「だが覚えておけ」
「私が器を失ったなら──
そなたはその刃で
私を斬れ」
さくらは
その言葉に、
初めて微かに微笑んだ。
男はその表情を見て思う。
(……やはり)
(この女は
刃を持つ者の孤独を理解している)
そしてその孤独を
力に変える器が
自分にはあると
確信した。
――この日、
小国の一角に
天下の刃が据えられた。




