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――戦場の風が
熱気を帯びて吹き抜けても、
さくらの刃は、
以前のようには鳴らなかった。
刃が鈍ったのではない。
振るう意味が、鈍った。
◆◆
敵の槍列を断ち、
味方を押し出し、
軍を勝たせる──
その一連の理が、
胸の奥で空洞になり始めていた。
(この勝利を誰のために積むのか)
背後には、
秩序ではなく
自分に泥を押し付ける主君がいる。
(あの裁定が続くのなら──
この軍は、
いずれ無秩序な泥舟になりますね)
その未来は、
戦より恐ろしい。
◆◆刃の鈍り
大太刀を振るい、
敵兵を両断したその瞬間でさえ、
胸の中の鈍りは消えなかった。
(私は何のために戦っているのか)
殿のため?
国のため?
──どちらでもない。
今の殿が
国の理を曲げ、
私の背を汚し、
秩序すら実験材料に使うなら、
(私は、
その殿のために
刃を振るう価値を
見出せません)
敵を斬りながら思うことではないが、
戦場だからこそ
吐き出される真理だった。
◆◆若侍の影が
遠巻きにさくらを見つめていた
その視線すら、
さくらの背にとっては
“殿が押し付けた泥”の象徴でしかない。
(私はこの男の影を背負うために
鍛錬したわけではありません)
◆◆殿のためという柱が揺らぐと
戦の刃は、
命を賭ける理由を失う。
己の剣に価値を与えるのは
主君の理でも美辞麗句でもなく、
“切る先に意味があるかどうか”。
その意味が曇れば──
刃は鈍る。
(今の殿は、
勝つためではなく、
私を試すために戦を使っている)
(戦を弄ぶ者のために
私は死ぬ気はありません)
◆◆さくらの思考は
戦場の中でますます鋭くなる。
(あの殿の下に居れば、
私は必ず命を落とすでしょう)
(腐った組織の中で
剣がいかに強くとも──
泥舟と共に沈む)
大太刀がまた走る。
敵兵が倒れる。
しかし、その刃は
勝利を望んでいない。
戦場の熱と血の匂いの中で、
さくらの思考だけが
戦とは別の方向へ鋭く進んでいた。
大太刀は敵を断つが、
心の刃は――
主君を断ち始めている。
◆◆
(……この戦が終わったら、
私は出奔してもいいのではないか)
その考えは
怒りの衝動ではなく――
冷えた算段。
殿への失望の積み重ねが
静かに一線を超えた。
(戦を整える者が、
戦を弄ぶ者の下で腐るなど、
剣の恥です)
◆◆噂の主
それとは別に、
耳にかすかに残っている話があった。
小国の、
うつけと嘲られていた男。
名君でも名将でもない。
愚かと呼ばれ、
軽んじられ、
見限られていた男。
だが──
少し前、
その男は
地方一つを支配する大国の軍勢に
奇襲を仕掛け、
信じがたい勝利を得た。
その話は
誇張ではないらしい。
敵の将が
「悪夢だった」と語ったという噂。
敗走した兵が
「鬼の統率」と恐れたという話。
(……うつけではないのかもしれません)
(ただ、
誰もその器を
測る目を持っていなかっただけ……)
噂の中に
どこか自分と似た臭いがあった。
◆◆比較という毒
今の殿は
刃を使えず、
人を秩序ではなく
玩具として扱う。
その男は
見放されながらも
戦を形にし、
奇跡を現実にした。
(器とは
外から測れぬもの)
この戦は、
さくらにとって
試されるのは忠誠ではなく
見切りの時だった。
◆◆決断の芽
(今回のことは……
いい機会なのかもしれません)
大太刀の血を払いながら
さくらは思う。
(戦が終われば、
私は風になる)
(私に刃を汚させた主君を見限り、
器の香る者のもとへ向かう)
若侍の影が
遠巻きに彼女を見ている。
(私の背を守る資格があるのは、
私の理を理解できる者だけ)
(殿がそれをできぬなら、
別の主を探すまで)
◆◆風を嗅ぐ女
戦場の血煙と砂塵の中で、
さくらは鼻先をわずかに上げた。
(……この国の匂いは濁ってきた)
(私の刃を濁らせる風)
反対に、
聞いたこともない小国の方向には
わずかながら
乾いた鋭い風がある気がした。
(器の匂い……
試す価値がある)
◆◆戦は続く
敵が押し下がり、
味方が矛を強める。
だが、
さくらの刃は
勝たせるために振るっていない。
(生き延びるために振るう)
(そして
勝利の瞬間を
“別れの刻”とするために)
◆◆その時、彼女は悟っていた。
戦国の刃は
主君を選ばねば
濁って死ぬ。
(私は沈まない)
(沈むなら、殿が沈む)
大太刀を振りながら──
さくらの視線は
“今いる国の終わり”と
“別の国の始まり”を
同時に見ていた。
戦が終わるのを
待っているのではない。
戦を
終わらせる理由を
固めている。
そして、
出奔という二文字は
彼女にとって
逃げでも裏切りでもなく、
“刃が己の居場所を
選び直すだけ”だった。




