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4.砕けたもの

――翌朝。

まだ霜の気配が残る静けさの中、

上座の間へとさくらは呼ばれた。


昨夜と同じ広間だが、

空気が違う。

人の視線が増えている。


側侍、家老、書記、武官――

全員が、

この女がどんな存在なのか

確かめようとする目をしていた。


大名はすでに座しており、

茶を口に含みながら言った。


「来たか。

――さくら」


名を呼ぶ声は、

軽いが、無視できぬ重さがある。


さくらは膝をつき、

一礼する。


「此度、そなたを我が“影”とする」


ざわりと、周囲が揺れた。


影――

表には出ず、

殿の身辺を守り、

耳目として動く者。


家中でも、ごくわずかしか任じられぬ役だ。


家老が一歩前へ出て、

文書を広げる。


「殿、直々の命にて、

さくら殿を近侍兼影守に任ずる」


声が響き、

静けさが際立つ。


大名は茶器を置き、

さくらを見据えた。


「そなたの力は認める。

匂いもまた、使いようによっては武器となろう」


その言葉に、

周囲の侍たちの眉が一斉に動いた。


さくらは目を伏せたまま、

小さく答えた。


「御意」


「ただし――」


大名の声音が深くなる。


「その匂いは剣よりも扱いが難しい。

味方の心を乱すこともある」


家老の視線が一瞬さくらに刺さる。

昨夜の空気が思い返されるのだろう。


大名は続ける。


「ゆえに、そなたは私の近くに置く。

私自身が、その力の価値を見極めよう」


そこには、

試し、使い、斬り捨てる覚悟がある声音だった。


さくらは顔を上げた。


その瞳には、

何も怯えがない。


(また、試されるだけ)


それ以上でも以下でもない。


大名は微笑む。


「この国は変わる。

常識が壊れるとき、

異物が力になる」


その眼は、

武断者のものだった。


「――そなたは、私の異物だ」


さくらは静かに息を吸う。


桃の皮を裂くような匂いが、

座敷に淡く広がった。


側侍たちの喉がわずかに鳴る。

家老が顔を引き締める。


大名はその揺らぎを愉しむかのように、

微かに目を細めた。


「まずは私の行動に常に随行せよ。

剣も匂いも――私のために使え」


「御意」


返した声は淡白で、

それゆえに強かった。


この瞬間、家中の力学は確かに動いた。


大名の寵愛か、

武器としての扱いか、

それとも両方か。


どちらにせよ、

城の者たちは、自分の立ち位置が変わる予感に

喉奥がざわついた。


そしてさくらは、

座を辞しながら心中で静かに呟いた。


(……始まった)


誰かの女にはならない。

匂いは弱点でも呪いでもなく、

ただの自分の存在証明だ。


それを武器にするかどうかは、

自分次第。


城の廊下に出ると、

朝の空気がその匂いを吸ってゆく。


誰かが十歩手前で振り返った。


それでいい。

それが自分だ。


---


――昼下がり、

城の裏手の庭に降りると、

風が竹垣を揺らしていた。


そこで待ち受けていたのは、

昨日さくらを避けるように視線を逸らしていた側侍の一人。


嫉妬を血に混ぜたような男だ。


彼は真剣を帯び、

声を張った。


「殿の影を任ずるなど、

家の秩序を乱すにも程がある!」


言葉は大義を口にしているが、

根はただの屈辱だ。


庭の見物に数人の侍が立つ。

誰も止めない。

止められない。


さくらは静かに膝を折り、

庭石のそばに置いていた短い木刀を手に取った。

稽古用の、それも子供が扱うほどの寸法。


「……好きに抜いてください」


その声音は淡い。

怒りも挑発もない。


「私はこれで十分です」


その言葉が、

男の理性をかえって灼いた。


「俺を侮るな!」


鞘走りの音。

真剣の銀が陽を受けて閃く。


見物の侍たちが息を飲む。


男は突進した。

怒気と自尊心と恐れを混ぜた踏み込み。


――瞬間。


鳴ったのは、

刀の打ち合う音ではなく、


乾いた木の衝突音。


男の身体が、

石畳に叩きつけられていた。


さくらはほとんど動いていない。

木刀の先が、

男の喉元に静かに触れる。


風がひとつ通る。


「……真剣を抜いたのは、あなたです」


声は淡々としている。

優越でも侮蔑でもなく、

ただ事実を置くだけ。


男の目が揺れる。


怒りはもうない。

あるのは恐れと、

思い知らされた自分の小ささ。


さくらは木刀を下げ、

その場を去ろうと背を向ける。


「死なずに済んで、よかったですね」


その一言だけ置いて。


見物していた侍たちは、

誰も声を出さない。

息をするのも忘れたようだ。


男は地に伏し、

土の匂いを吸い込みながら理解した。


――“本気で斬られていたら、私はもういない”。


それが、

この女の感覚では当たり前なのだ。


さくらは庭を抜けながら、

胸の奥に淡い疲労を感じていた。


(また同じことか……

勝ち続ければ、また誰かが試しに来る)


だが、

それでいい。


そのたびに、自分の立ち位置が強まるのだから。


桃の香が庭に残り、

影のように揺れていた。


---


――この小さな庭での一件は、

ただの稽古騒ぎとして終わらなかった。


その日の夕刻、

家老が控えめな声で報告した。


「……さくら殿が、裏庭で小競り合いを」


大名は茶器を回しながら、

鼻で笑った。


「またか。

男は弱いものだな」


家老は眉を寄せる。


「真剣を抜いたのは側侍の方。

しかし、一合で地に伏したと」


殿は視線を庭に向け、

静かに言った。


「それでよい。

力は、ひとつひとつ見せつけねば人は従わぬ」


その声音には、

満足すら混ざっていた。


「騒ぎが増えるほど、

さくらの価値は家中に根づく」


殿は湯気を眺め、

独りごちるように付け加えた。


「――いずれ、敵も味方も、あやつで揺らぐ」


---


決闘を見ていた一人の侍がいた。

まだ若く、

剣よりも観察の才を持つ者。


彼は木陰で腕を組み、

ただ一つのことに驚いていた。


(あれほどの力で、

木刀の当て方が……柔らかかった)


殺すつもりなら、

喉を断ち切っていた。


つまり――

“手加減できる怪物”だ。


その気づきに、

恐れよりも好奇が勝った。


(あれは剣だけでなく……

人の扱いを知っている)


その侍は、

初めてこの女に近づきたいと思った。


憧れなのか、

理解したいだけなのか、

その時点では曖昧だった。


---


そして夜。

裏庭で打ち据えられた男は、

自尊心を腕で押さえ込むように、

城下の酒場に現れた。


酒が回ると、

語りが始まる。


「いいか……

あれは人間じゃない」


椀を叩き、

震える心を豪胆に塗り替える。


「木刀一本で俺の真剣を砕いた。

いや、砕けたのは俺か!」


笑いを誘いながら、

目だけは笑っていない。


「殿も惚れ込んでおられる。

――あれは天下を変えるぞ」


誇大して語る。

それは自尊心の防壁だ。


侮辱されたのではなく、

“英雄に敗れた”ことにしておく。


周囲の酒飲みたちは、

面白がり、

信じかける。


噂がまた広がる。


女であり怪物、桃の匂いで人を揺らし、剣で人を飛ばす。

殿の影。


――こうして、

庭の一瞬は街の伝説へと変わった。


さくらは知らない。

語りが勝手に彼女を膨らませていくことを。

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