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――戦が傾いた瞬間。
敵の中央が崩れ、前線が押し上がり、
軍の意志がさくらの刃と同調し始めたその時──
背後からふと、
違和感のある呼吸音がした。
(……この気配)
槍の軋みでも、
靴音でも、
刃の風切りでもない。
“恐れた者の、必死に食らいつく呼吸”。
さくらは振り返る。
そこにいたのは──
◆◆追放されたはずの若侍
かつて士道を踏み外し、
家名を剥奪され、
国を追われた若侍。
その男が、
誰よりも近い場所で
さくらの背を守るように立っていた。
顔は泥だらけ。
鎧は借り物。
紋も位もない。
ただ、
目だけが燃えている。
「……さくら殿の背を守るのが、
俺の戦だと思った」
その声を聞いた瞬間、
さくらの眼差しが冷える。
刃は向けない。
だが、
言葉が刃になる。
> 「私はあなたに、
背を任せることを許した覚えはありません」
若侍は息を止めた。
周囲の兵が、
恐ろしくて目を逸らす。
(……鬼娘が怒っている)
(戦場であっても、
踏み越えてはならぬ線があるらしい)
◆◆戦の最中の叱責
さくらの声は、
戦の喧騒を押し黙らせるほど静かだった。
「本陣へ戻りますよ」
若侍の顔が凍る。
「い、いま……
敵が逃げて……!」
「私は戦を終わらせに来たのであって、
あなたの無断の参戦を
認めに来たのではありません」
その一言は、
敵軍の悲鳴より鋭く
若侍の胸を刺した。
「殿のお許しなく戦場に出る者は、
兵ではなく盗賊と同じです」
若侍は目を伏せる。
「……それでも、
背を守りたかった」
かすれた声に、
さくらの表情は揺れない。
「その言葉を、
殿の前でも言えるのなら」
さくらは若侍の胸倉を掴んだ。
片手で、鎧ごと持ち上げる。
(この力……やはり鬼だ)
若侍は抵抗しない。
ただ、
己の足が宙に浮いたまま
黙っていた。
◆◆殿の本陣へ
戦場が勝利の色を帯び始める中、
さくらは若侍を引きずるように
後方へ向かった。
将も兵も、
視線を逸らす。
さくらが怒っているのではない。
秩序の線を、
乱暴なほどまっすぐに守ろうとしている。
その背は、
振るう大太刀よりも怖かった。
本陣に辿り着く。
殿は戦況を見ながらも、
さくらの足音だけを聞き分ける。
扇が止まった。
案内もなく、
さくらは若侍を放り出すように
殿の前へと膝をつかせる。
「殿」
「この者は──」
殿は一瞥で理解した。
「追放された若侍か」
さくらは頷き、淡々と告げる。
「無断で戦に参じ、
私の背に立ちました」
殿は扇を閉じる。
「……そなたはなぜここにいる」
若侍は
膝を折りかけながら
絞り出すように答えた。
「……剣を教えてくださった方の背が、
好きでした」
「その背を守りたいと
思ってしまいました」
殿は笑わない。
怒りもしない。
ただ、
指先で扇を一度だけ弾いた。
さくらが一歩前へ出る。
「殿の領地を荒らし、
秩序を破る者が戦場に上がれば、
それは軍の弱点となります」
「兵ではなく、
“無秩序”です」
殿の視線が、
さくらから若侍へ移る。
「ふむ……無秩序、か」
しばしの沈黙。
本陣の空気が、
じわりと張り詰めていく。
やがて殿は、
静かに口を開いた。
「ならば──
そなたを『兵』としては扱わぬ」
若侍の瞳が揺れる。
殿は続ける。
「戦列にも、
隊にも入れぬ」
扇がひらりと揺れた。
「その代わり――」
「さくらの背にのみ立つ者として、
この戦場を歩け」
◆◆
――静かな空気が、
本陣の中で一瞬にして緊張へと変わった。
兵も家老も、
若侍も息を飲む。
殿の側に跪く若侍の背後で、
一歩だけ踏み出した女がいた。
さくら。
黒髪が揺れ、
大太刀の鞘が僅かに鳴る。
その声は
怒りの高さではなく、
凪の深さで殿に届いた。
> 「……私は嫌です」
扇が半拍遅れて止まり、
殿の目が鋭く細くなる。
国の柱である女が、
殿の決定に真正面から異を唱えた。
さくらは続ける。
「このような者がいれば、
強大な敵よりも恐ろしい存在になります」
「軍紀を乱し、
勝手に戦場へ入り、
背に立つなど盗賊の行い」
若侍が顔を伏せる。
さくらの目は
彼には向かない。
ただ、
殿だけをまっすぐに見据える。
「盗賊の群れが
軍隊に勝つことはできません」
「殿、
この者を従者とすることは、
国の歯車に砂を混ぜることと同じです」
「私は、
そんなものを背に置きません」
◆◆殿の反駁
殿の扇が静かに閉じられた。
家老たちは
息を潜めたまま動かない。
「……さくら」
殿の声は低く、静か。
「そなたは
秩序の乱れを恐れているのか?」
さくらは即答した。
「恐れはしません」
「ですが、
戦を汚す者を
許すことはありません」
「戦は、
汚物の上に成り立つものではない」
殿は口角をわずかに上げる。
「では聞こう」
「そなたは無秩序を斬れるか?」
「この男が再び士道を踏み外した時――
自分の手で斬れるか?」
さくらの目が、
殿の奥意を捉える。
(殿は、
従者を与えよとは言っていない)
(この男の責任を、
私の刃に結びつけようとしている)
殿は続けた。
「そなたの嫌悪は正しい」
「だが国というものは、
嫌悪だけでは動かぬ」
「罰を受けた者に
再び剣を許す寛容を持つのも、
国の役目だ」
「ただし――」
殿の目が鋭く光る。
「その剣の責任を、
そなたが負うのだ」
「そなたの背に立ったというのなら、
そなたの刃で
その価値を測れ」
◆◆影という名の秩序
一拍の沈黙。
戦場の怒号が、
遠雷のようにかすんでいく。
さくらは殿を見据えたまま言う。
「……殿の仰ること、
理解はします」
「ですが――」
大太刀の柄に
指が静かにかかる。
「無秩序が私の影で息をすることだけは
許しません」
「この者が従者となるのなら、
殿の命ではなく――
私の命令しか聞かせません」
若侍は息を呑む。
殿の目が細められる。
(……この女は
従者を持つことを拒んでいるのではない)
(“覚悟なき従者”を
拒んでいるのだ)
殿はゆっくりと告げた。
「それでよい」
「そなたが嫌うならば、
この者は従者ではない」
「――影だ」
「そなたの背に立つ資格を
自ら証明せよ」
「それができなければ、
今度こそ斬られるだけだ」
若侍は深く頭を垂れる。
「……承知しました」
◆◆本陣を離れながら
さくらは若侍に視線を向けない。
ただ、
背だけを見せて言う。
「あなたは従者ではありません」
「影です」
「影は主の光を汚せません」
若侍は、
膝をついたまま地に額をつけた。
「……その影として、
秩序を踏み越えぬと誓います」
さくらの背は
再び戦場へ戻る。
影は、
その一歩後ろを歩く。
その距離は、
罰と赦しの間の距離だった。




