33.斬らぬ刃
――軍が整うより先に、
風が走った。
城下を抜け、
野を越え、
戦場になりかけた土地へ。
◆乱戦の地
二国の争いは幼稚だった。
領土の線も曖昧、
指揮も揺らぎ、
兵は恐怖より疑いで刀を振るっている。
(――これは戦ではない)
さくらは馬を進ませながら
遠くの渦を見つめた。
刃と刃が交わっているのに、
戦の音がしない。
ただ混乱があるだけ。
彼女の手が太刀の柄に触れる。
「終わらせましょう」
その一言が
軍の先頭を動かした。
突入ではない。
疾駆でもない。
歩み。
敵兵は、新たな軍勢の登場に
恐れよりも困惑を抱いた。
「どちらだ!?」 「味方か、敵か――!」
その混乱の只中、
黒髪の影が進む。
大太刀が、
まだ抜かれていないのに
空気を裂く。
瞳がざわつき、
叫びが止まる。
最初の接触。
乱戦の中心で
刀を振り回していた兵が
さくらへ斬りかかった。
さくらは振り向きもしない。
掌が、
その刃をつかむ。
金属が悲鳴を上げた。
兵は、自分の刀が
奪われたことにすら気づけない。
さくらの声は淡々としていた。
「その刃に、戦は乗っていません」
そのまま、
彼女は兵を押し出すだけで
倒した。
その行為が
戦場全体に走った。
(――なぜ、殺さない?)
(鬼娘ではないのか?)
(これは……裁きか?)
次に迫った兵には、
さくらは太刀を抜いた。
一閃――
だが血は出ない。
刀は柄を叩き、
剣を弾き、
足を払った。
殺しではなく、
戦の否定。
敵将が混乱の中で見た。
「……鬼娘が、
斬らずに進む……?」
軍師が呟く。
「殺しではなく、
均すために来た……?」
さくらは歩く。
抜刀はしているが
血はつかない。
しかし、
兵は倒れる。
刀は砕ける。
抵抗は潰れる。
彼女の歩みは
国の怒りそのものだった。
◆中央へ到達
二国の将が
互いに罵り合っていた。
「裏切ったのはそちらだ!」 「我が子飼いが斬られたのだぞ!」
さくらが近づく。
大太刀の影が
地面に落ちた。
二人はその影に怯む。
「やめよ」
その声は
叫びでも怒号でもない。
ただの、
事実の告知。
「戦が戦を捨て、
争いだけが残っている」
「それは、
戦ではありません」
将たちは言葉を失う。
二人が刀を構えた瞬間、
さくらの太刀が
二本の刀を同時に弾いた。
刃は砕けない。
折れない。
ただ――
その意志を否定した。
将たちの手から
刀が落ちる。
「おまえたちは、
戦を扱う資格を
失っています」
周囲が凍る。
生かすでも、
殺すでもない。
彼女はただ、
裁いた。
「国を均します」
大太刀が地面に突き立てられる。
その響きが
全軍の脚を止めた。
風が変わる。
戦場が、
まるで息を吹き返したように静まる。
こうして――
さくらは戦を止めた。
自軍が来る前に。
乱を均し、
秩序を戻し、
兵を散らし、
将を沈黙させた。
戦を“終わらせるための戦”が、
ひとつ完結した瞬間だった。
遠くで若侍の不在を思い、
彼女はふと呟く。
(……線を踏み外せば、
人は自らを壊す)
(国も、人も、同じか)
大太刀を背負い直し、
さくらは歩き出す。
戦はまだ終わっていない。
ただ、
ひとつ目の乱を
“刃の倫理”で終わらせただけ。
次の風を嗅ぎ、
さくらは思う。
「まだ、均すべきものがありますね」
影が進む。
――次の乱の方角へ。
――乱を均したその日の夕刻。
国境の風は、いつもより重かった。
◆
さくらが歩く道の先、
瓦が低く続く集落があった。
戦の火がまだ届いていない、
穏やかで小さな村――だったはずだ。
しかし。
「……焼かれていますね」
さくらの言葉は淡々としていた。
村は炎に沈み、
逃げ惑う人の影が散っている。
二国の戦の余波――
退却兵の略奪。
戦ではなく、
飢えた刃が人を食う光景。
兵の叫びが聞こえる。
「はやく火を回せ!」 「女を囲んでおけ!」
さくらは一歩だけ前に出た。
火の熱風が頬に当たる。
桃の香が焼ける匂いと混ざる。
大太刀の柄が
わずかに揺れた。
「……許しません」
歩き出す。
略奪兵が、
黒髪と巨大な刃の影を見つけた。
「な、何だあれ――?」
「やめろ、お前たち退け!」
恐怖と興奮が混ざった声。
人の怒りが理解できぬ者たち。
さくらは近づきながら言う。
「戦の名を借り、
人を喰らう者たちへ」
一閃。
脇差の太刀が抜かれ、
火の前を走る。
切られたのは人ではなく――
油を撒いた桶。
火が跳ね、
略奪兵が慌てて飛び退く。
「何をしている!? 殺せ!」
別の兵が叫ぶが、
さくらは聞かない。
炎の前に立ち、
大太刀の先端を地に突き立てた。
熱で揺らぐ空気の中、
彼女は言う。
「戦は人を守るためのものです」
「人を喰らう者は――
刃の名を名乗れません」
略奪兵が突撃する。
十人。
二十人。
彼女は動かない。
風の方が先に動いた。
火が揺れ、
刃が影のように走り――
兵が地に落ちた。
叫びもない。
断末魔もない。
ただ、
存在が失われたような音。
炎の中、
泣き叫んでいた村人が
「あの方は……」
「鬼娘……?」
「いや……」
老人が目を細める。
「戦を止めに来た神じゃろう」
その言葉に、
誰も反論しなかった。
略奪兵の残党は逃げた。
さくらは追わない。
振り返り、
村人たちに頭を下げた。
深くではない。
丁寧でもない。
ただ、
“戦場に立つ者の礼”。
「……家を再び建て直せるよう
道を作っておきます」
彼女は村の手前にある
倒木を引き起こし、
道を塞ぐ障害を片手で退けた。
その光景に
村人は息を呑んだ。
戦の女が、
破壊ではなく――
再建のために力を使っている。
村を出る時、
老人が近づき
震える声で言った。
「……ありがとぅ……
どなた様か知らんが、
あんたは……
憎まれ神じゃない」
さくらは振り返らない。
ただ、
静かに言う。
「戦をする者は、
人の血を守れねば
意味がありません」
それだけ。
村人はその背を
神でも鬼でもない――
人として見送った。
夕陽の方向へ歩きながら、
さくらは空を見上げた。
燃え残る匂い、
血の匂い、
涙の匂い。
(均すというのは……
殺すことだけではありませんね)
(守ることも、
また均し)
大太刀が揺れる。
そして彼女は
次の乱の匂いを嗅ぎ取った。
「……まだありますね」
影は村を離れ、
再び戦の気配の方へ向かう。
――乱を均す者の
次の一歩が
また始まった。




