32.秩序
――庭の端、
立て掛けた大太刀の影を眺めながら、
さくらは静かに思い返していた。
かつて――
あの若侍に剣を教えたことがあった。
刃を握る時の重さ、
足運び、
視線の位置、
人を斬る覚悟。
それらを教えた時、
若侍の瞳は
真っ直ぐだった。
鋭さは足りずとも、
火は確かにあった。
だからこそ、
あの狼藉が
許し難かった。
教わった者が
教えた者を獣の目で見る――
それは剣の裏切りであり、
士道の堕落だった。
教えを仇で返す。
信頼を汚す。
己を律するはずの武士が
線を踏み越えた。
(あの者は――
剣を持つ資格を
初めから持っていなかったのかもしれません)
さくらは
そう思いかけて、
首を振った。
(違います)
(剣の道に立つ者は、
途中で迷い、
己を見失うことがある)
だがそれは、
言い訳にならない。
さくらは庭の中央に立つ。
足下の土が固い。
戦の場所の土ではない。
だからこそ、
考える余白がある。
(私は――
あのようにはならない)
それは怒りではない。
誓いでもない。
ただの、
線を知る者の自覚。
(戦で人を斬ることと、
人の敷居を破ることは別です)
(刃の倫理を持つ者は、
人の倫理を捨ててはならない)
その思いは、
さくらの胸に
鋼より冷たく沈んだ。
かつて剣を教えた日、
若侍は笑っていた。
「さくら殿の一太刀は、
人を育てる太刀でもありますね」
――その言葉が皮肉だ。
育てた者が、
線を踏み越えた。
だからこそ、
さくらは思う。
(教えは刃だ)
(それを握る側が
間違えば、
刃は人を裏切る)
風が吹き、
薄い着物の裾が揺れる。
さくらは大太刀を引き寄せ、
柄に手を添えた。
「……戒めですね」
独り言が落ちる。
(士道は人に教えるものではない。
自分で守るものだ)
(だから私は――
あの者の末路を、
己の戒めとして刻んでおきましょう)
太刀の柄を軽く押し、
刃が小さく鳴いた。
それは誓いでも、
怒りでもなく――
線を引く音。
さくらは目を閉じる。
己の影が、
庭の端で静かに伸びていた。
彼女は戦の女である前に、
侍であることを
決して放棄しない。
若侍の末路は、
怒りではなく――
己を守るための反面教師となった。
そしてさくらは
歩を進める。
戦が来るまで、
刃だけでなく
心も磨くために。
――翌朝。
空は晴れているのに、
風だけがどこか落ち着かない。
さくらは
庭の端で刀を磨きながら、
その変化を嗅いでいた。
(……戦が、
どこかで芽吹いている)
風の向きを読んだ瞬間――
足音。
使者が走ってきた。
「さくら殿!」
息を切らしながら、
膝をつく。
「殿より……
至急の御用向き!」
さくらは顔を上げず、
刀の鞘を締める。
「申し上げよ」
使者は僅かにためらい、
続けた。
「敵国が――
二国、同盟を破り、
互いに戦を始めました」
さくらの動きが止まる。
(……同盟が瓦解した)
「鬼娘封殺連合が崩れ、
秩序が壊れたようです」
城に戻ったさくらは、
殿との対面に臨む。
殿は扇を指で弾きながら
静かに言った。
「連合は崩壊し、
互いが互いを疑い、
戦を始めた」
扇が一度だけ鳴る。
「そなたが歩いた結果だ」
その声には
賞賛でも非難でもなく――
理解があった。
「国々は戦を拒んだ。
だが、
戦は拒んだ者を喰う」
殿は立ち上がり、
地図を指した。
「今――
敵は互いに争っている」
扇が地図の線をなぞる。
「その隙を
国として掴む」
殿は振り返る。
「さくら」
名だけ呼ぶ。
命令でも号令でもない。
それだけで、
意味は伝わる。
さくらは膝を折らず、
ただ前に進む。
「……出陣ですね」
殿は笑う。
「そなたが戦を求めるなら、
戦の方もそなたを求める」
扇が閉じられた。
「軍は動き始めた」
「今度は――
戦を止めるための戦だ」
家老が息を飲む。
(止める、とは……)
殿は言う。
「そなたが進めば、
戦は終わる」
扇が音を立てる。
「国が乱れた時、
均す者が必要だ」
「その役目を、
そなたに背負わせる」
さくらは深く頷いた。
「心得ました」
廊下へ出たさくらを
若侍不在の空気が出迎える。
あの件は、
国の秩序を守るための裁きだった。
今度は――
国そのものの秩序が試される番。
さくらは歩きながら
静かに呟いた。
「戦が壊すなら、
私が均せばいい」
風がまた変わる。
刀の柄に手が置かれる。
戦の香りではない。
乱れの香り。
その乱れを処するため、
戦の女は再び歩き出した。
――次の戦は、
戦を終わらせるための戦。
そして、
その中心にはまた
黒髪の影が立つ。
余白が広がる。
次の一手が動く。




