31.愚者の裁き
――冷水が肩を打つ音だけが
屋敷に響いていた。
露わな背。
戦で傷つかず、
鍛錬で鍛えられた
しなやかな肌。
それは
剣士としての肉体であるよりも――
誰にも晒したことのない、
ただの人の体。
その体を盗み見られた屈辱が、
冷水より冷たかった。
さくらは手拭で髪を拭い、
衣を整えた。
戦の場では気にならぬことも、
人の世では
線を越える行いがある。
(刃を抜かずに済ませたのは
怒りが余りに人の領域だったから)
侍として怒っているのではない。
女としての尊厳を
踏み荒らされた怒り。
さくらは着物を整え、
刀を背負った。
「殿のお耳に入れるべきでしょう」
声は静か。
だが、
その静けさの奥にあるものは
戦より鋭い。
城への道を歩きながら、
さくらの内面は淡々としていた。
怒りの形は既に決まっている。
罰は自分が下すのではない。
秩序の下で
裁かれなければならない。
勝手に屋敷へ入る――
それは、
侍が最も嫌うはずの
“卑しい振る舞い”。
なのに
若侍はそれをした。
(戦の場では
命を預けられる者が、
人の敷居を侵す)
――その矛盾が、
さくらにとって
侮辱そのものだった。
城に着くと、
目通りの使いが驚いた。
「は、早くも……再出陣の話を?」
さくらは首を振った。
「いいえ。
ひとつ、殿のお耳に」
使いは案内し、
殿の間へ進む。
さくらは入る前に
一度深く息を吐いた。
(これは戦の申告ではない)
障子が開かれる。
殿は書を見ていたが、
彼女を見て
扇を止めた。
「何かあったか」
その問いに、
さくらは膝を折らず言う。
> 「殿。
わたしが帰宅した折――
侍が我が屋敷へ踏み込み、
肌を盗み見ました」
殿の目が細くなる。
部屋の空気が変わる。
さくらは言葉を続ける。
「戦で背を預ける者が
人の敷居を破るならば、
戦よりも厄介です」
「侍が侍でなくなる行いは
裁かれるべきです」
殿は扇を閉じた。
「名は」
「――まだ聞く気にもなりません」
殿の喉がわずかに鳴る。
側侍たちは
血の気を失った。
この女が
戦場より怒っている。
殿は言った。
「そなたは……
斬らなかったのだな」
「人の家を破った者を
その場で断つこともできたろう」
さくらは静かに答える。
「殿が居られる国です。
秩序で裁くべきです」
殿の唇が
ゆっくり笑みに曲がった。
「……良い」
「報告を受けた。
その侍は……
刃を預ける資格を失った」
扇がひらりと鳴る。
「追放、家断絶、
もしくは士籍剥奪――
そなたの望む形で裁こう」
さくらは一礼もせず、
ただ言う。
「殿にお任せします」
殿は目を細めた。
「そなたは国を守るために怒っている」
「自分の肌を見られたからではない」
さくらは答えず、
背を向ける。
殿はその背に声を掛けた。
「――侍とは、
戦の外でこそ試されるものだ」
さくらは
わずかに頷いた。
廊下に出た時、
風が少し軽くなっていた。
裁きは下る。
それはさくらの手ではなく、
国の手で。
彼女は、
戦の刃である以前に――
国の秩序を守る者だった。
家への道を歩きながら、
さくらは心の奥の怒りを
静かに沈めていった。
(殿が裁くならそれで良い)
(侍の名は……
殿の耳に届いた時点で
もう終わっている)
風が吹き、
桃の香りが揺れる。
さくらの歩みは
再び静かになっていた。
――殿の間に
静かな夜が落ちた。
扇の影が
畳の上で揺れる。
殿は、
膝を折って並ぶ家老と側侍に告げた。
「――侍とは、
戦の内よりも
戦の外で試される」
その一言で、
処断は既に決まっていた。
◆
翌朝。
城中に
密やかに、
しかし確実に触れが流れた。
若侍――
士道を踏み外し、
武家の敷居を穢す。
その罪は
戦功や忠誠では覆せない。
屋敷に踏み入るは
盗人の所業。
肌を盗み見るは
狼の業。
侍の名を捨てるべき行い。
裁きは迅速だった。
まず、
士籍剥奪。
名字を名乗る権利が消えた。
家中での席もなくなる。
廊下で名前を呼ばれる者が、
突然「誰でもない」になる。
若侍の顔色は
刻一刻と変わっていく。
次に、
家断絶。
親類縁者は嘆願したが、
殿は扇を鳴らし言った。
「家名を持つ者が
女の家に踏み入るは、
家そのものの堕落だ」
その汚れは家を残すべきでない。
家門の札は外され、
屋敷は封じられ、
人々は目を逸らしながら
その光景を見た。
そして――
最後の裁き。
若侍の前で、
殿の使者が文を読み上げた。
「――戦の場で
討たれる価値もない」
「故に、追放とする」
死ではない。
名誉の死でさえない。
生きて恥を背負えという裁き。
侍にとって、
死より重い刑。
若侍は
膝を突きながら震えた。
(……死を……赦されなかった)
死ぬ自由すらない。
生きて、
侍として扱われず、
領内に戻れず、
外の地で、
侍だったという過去だけ背負う。
評定が下った瞬間、
城の空気が変わった。
侍たちは
息を止める思いだった。
これほど徹底した裁きは――
刀の罪ではない。
人の節度を破った罪。
戦で役に立つ者でも、
許されない線がある。
誰も声を掛けない。
誰も笑わない。
若侍は
一人で立ち上がるしかなかった。
刀を没収され、
家紋を剥がされ、
ただの旅人として
城を追い出される。
戻る家はない。
帰る名もない。
処断の報は
さくらにも届いた。
彼女は
表情を変えずに言った。
「殿の裁きは
正しいと思います」
それ以上、
言うことはない。
怒りは
秩序によって冷えた。
刃ではなく、
国が裁いたことが
彼女にとっての正義だった。
城下に噂が落ちる。
「侍が、侍の敷居を破った罰か」
「鬼娘に無礼を働いた者の末路だ」
だが真実は違う。
――鬼娘の怒りではなく、
国の秩序が裁いたのだ。
さくらは
庭に戻り、
太刀を手に取る。
その刃には、
戦以外の線を守る者としての
静けさがあった。
風が吹く。
侍が消え、
戦はまだ来ない。
それでも、
刃は磨かれる。
戦の女は、
秩序の上に立っていた。




