30.士道不覚悟
――戦がない日。
町人たちは
安堵を噛みしめ、
城下は一日だけ
平穏に見えた。
その裏で、
一つの屋敷の裏庭だけが
異様な空気を纏っていた。
◆
さくらは、
薄い布一枚を纏っただけ。
鎧も帯も帯刀もなく、
ただ
その体ひとつが刃のように立っている。
庭の隅には
掌ほどもある岩ではない。
ひと抱えもある巨石。
男が三人がかりで
やっと動かせる重さ。
それを――
さくらは両手で掴む。
息を整え、
足を沈める。
腕は細い。
力自慢が笑うほど。
だが膂力は常識を裏切る。
地面が鳴る。
岩が、
ゆっくりと浮き上がった。
土が砕け、
草がちぎれる。
空気が
岩と女の間に押し込まれる音。
彼女は迷いなく持ち上げた。
肩の高さまで。
――そして、
そこからが訓練だった。
岩を上げたまま、
呼吸を止めない。
腕の震えもない。
背筋に線が通り、
腹の奥が
無音で燃える。
落とさず、
崩れず。
風が肩を撫でるだけ。
その姿は
鍛錬でも修行でもなく、
戦が女の形をして
身体を動かしている光景。
付かず離れず見守っていた若侍は、
喉を鳴らすことしかできない。
(……人ではない)
それなのに
目を離せない。
憧れか恐れか、
区別が消えていく。
やがて、
さくらは岩を下ろした。
地面が悲鳴を上げる。
だが彼女は
その重さをまるで感じていない顔で、
再び岩に手を掛け、
――持ち上げた。
今度は
片手で。
若侍は息を止めた。
布越しに見える
柔らかな女の体つきと、
岩を片手で扱う
常軌を逸した力。
その矛盾が
恐ろしいほどの美になっている。
さくらは岩を肩まで上げ、
ふっと息を吐く。
「……重くはないのですね」
それは独り言。
誰に聞かせるでもない。
岩を下ろす時、
地面が揺れ、
砂が跳ね、
鳥が飛び立つ。
しかし女の呼吸は
乱れない。
岩鍛錬が終わると、
さくらは庭の端へ歩く。
そこに置かれているのは
巨大な木柱。
両腕を広げても抱えられない太さの、
大人の胴を何本も合わせたほどの柱。
彼女はその前に立ち、
拳を握った。
そして――
拳に力は入れず、ただ軽く触れ、
一歩踏み込んだ。
木柱が、
低い悲鳴のような音を立てる。
拳の跡が残った。
ほんの小さな凹み。
だがそれは、
人の鍛錬ではない。
刃の準備。
若侍は
どうしても声が出なかった。
(……この人は……
女であることも、
人であることも、
鍛える必要がないのだ)
それなのに――
鍛えている。
戦がない日は、
戦になるために
体を戻している。
庭の静けさの中で、
さくらは小さく呟いた。
「戦がまだ来ないのなら……
刃は磨いて待つだけ」
岩が沈黙し、
木柱が震え、
風がその言葉を持っていく。
薄着の女は、
そのまま静かに手を合わせた。
刀もないのに、
武士の礼の形。
――戦は、
この庭に立っていた。
---
――庭の空気が
わずかに揺れた瞬間。
さくらの背筋が、
岩よりも鋭く立った。
「……!?」
視線が庭の縁の影を捉える。
そこに――若侍。
息を潜め、
声も出さず、
ただ凝視していた。
薄布一枚の鍛錬姿、
汗の光、
戦の気配。
その沈黙が、
許し難いものとして
一気に噴き上がった。
さくらの手が
壁に立て掛けた太刀を掴む。
抜きもしないのに、
庭の空気が裂けた。
「――無礼者!!」
若侍は凍りついた。
さくらの怒声は、
戦場で聞く声ではない。
女としての、
人としての怒りだった。
「勝手に人の屋敷に入り込み、
嫁入り前のおなごの鍛錬姿を
盗み見るとは――」
踏み込む足音が、
疾風より早い。
「それが侍のやることか!」
太刀は抜かれていない。
だが、そのまま叩きつけられれば
首が落ちる距離だった。
若侍は膝から崩れた。
「ち、違っ……
そんなつもりは……!」
さくらの眉が吊り上がる。
「つもりなど関係ありません!」
庭が震え、
木柱の鳥が飛び去る。
「人の家に踏み込み、
黙って見続けた!」
「常識の欠片もない」
怒りの刃が、
太刀より鋭い。
「戦場で命を賭ける前に――
人の敷居も守れぬ者が
刃を握るな!」
若侍は
口を開こうとするが言葉がない。
理由も弁解も
すべて幼い。
ただ、
目を逸らせないのは、
恐怖と――
なぜ怒られるのか
ようやく理解したから。
さくらは太刀を振り下ろす――
かに見えて、
地面に突き刺した。
乾いた音が庭に響く。
「痴れ者め。恥を知るがいい」
若侍は動けない。
その静寂の中、
さくらは続ける。
「私は戦を歩く者だ。
だが――」
振り返り、
薄布の襟を整えた。
その仕草は、
怒りよりも
誇りを帯びていた。
「戦の前に、
人として守るべきものがある」
「それを踏み破る侍など、
ただの獣」
若侍の顔が青ざめた。
(……この人は……
自分の身を守れるから怒っているのではない)
(他者のあり方を
侮辱されたから怒っているのだ)
さくらは太刀を引き抜き、
立て掛け直す。
「出て行きなさい」
若侍は深く頭を下げ、
這うように退いた。
門が閉じられる。
さくらは
静かに息を吐いた。
怒りは消えないが、
戦場とは違う疲れが
胸に残った。
「常識のない刃など、
いらない」
それが、
彼女が守っている
人としての戦の線だった。
刀を壁に戻すと、
背を向けた。
鍛錬は再開される。
しかしその背には―
怒りがまだにじんでいた。




