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3.純なる刃として

――座敷は広いのに、

空気が薄かった。


畳に差す光が静かで、

障子の向こうには池の水音がわずかに聞こえる。


さくらが進み出ると、

その気配はすぐに室内へ浸透した。


桃の皮を擦ったような、ごく淡い香気。

大名の脇に控える侍が、

わずかに姿勢を固くしたのが見えた。


「……そなたか」


大名は老いていたが、

声には武断の響きがあった。


さくらは膝をつき、深く頭を下げる。

刀は脇に置き、

身の丈ほどある影が座敷に沈む。


「さくら、でございます」


名乗りは静かだった。


大名は、しばし黙して眺めた。

目には、

噂を確かめようとする光が宿る。


「立て」


短い命が落ちる。


さくらが立つと、

その瞬間、空気が揺れた。


側に控える侍の呼吸が、

一拍遅れた。


大名も、鼻先に漂う違和を悟ったらしい。


「なるほど……」


ただ一言。


嫌悪でも、好奇でもなく――

利用価値の匂いを嗅ぎ取った者の声だ。


「噂は虚ではなかったか」


さくらは返さない。

問われていない言葉は、

戦国では命を縮める。


大名は、杯を取った。

酒を含む前に、

その香りを味わうような仕草をしながら言った。


「女でありながら剛腕、

そして隠しえぬ匂い……

そなたの身は、天が冗談で作ったのかもしれぬな」


皮肉のようであり、

評価のようでもある。


さくらは微動だにしない。


(冗談でも何でもいい……

この身で切り開く)


その無言の気配を読み取ったのか、

大名の口端が僅かに吊り上がる。


「面白い。

そなたを使う」


背後の侍たちがざわめいた。

それは、恐れと興味が混ざる音だった。


「ただし――」


大名は杯を置き、

その指で軽く空を払う。


「そなたの匂いは、味方も惑わせる。

武器にもなれば、禍にもなる」


その言葉は、

まるで刀を手渡すときの忠告のようだった。


「戦場でどう働くか、見極めてやろう。

まずは近侍として、私の側に置く」


側侍たちの空気が一気に乱れる。


その甘い香気が、

座敷の主の命を動かした瞬間だった。


さくらは深く一礼した。


その胸中には、

安堵も喜びもなく――


ただ、

「また試される」という乾いた実感だけがあった。



――その夜、

城の奥の静かな一間。


灯りは低く、

外の池が闇に沈んでいる。


さくらは膳の前に座っていた。

食はほとんど手をつけていない。

匂いが邪魔をする。

誰かの視線が、闇のどこかにある。


襖がわずかに滑り、

家老が姿を現した。


「……殿は、そなたを気に入られた」


声は丁寧だが、

奥に湿り気があった。


「まずは女としての振る舞いを求められておる」


青い灯りの中、

刃のような沈黙が落ちる。


さくらは膳から顔を上げた。

その瞳には、何の揺れもなかった。


「女……?」


小さく笑う。

その笑いは柔らかいが、

中身は刃だ。


「なら、訊きますが」


ゆっくりと膝を立て、

刀の柄に手を添えるでもなく、

ただ背をまっすぐに正す。


「この家中に、私に剣で勝てる者がいますか?」


家老の眉がわずかに動いた。


「……」


「いるのなら」


言葉が静かに空気を裂く。


「いくらでも女になりましょう」


それは挑発ではなく、

真実の提示だった。


家老は口を閉ざす。

沈黙は否定に等しい。


さくらは膳の具を一つ摘んで、

口に運んだ。


「――いないのでしょう?」


声は涼しい。

息苦しさを布で押し殺していた頃の、

無理をしていた声ではない。


家老は、何か言い返す理屈を探した。

だが、

この女の前で虚勢を張ることが、

なぜか致命的な愚と感じられた。


「……殿は、そなたを侍として見るおつもりだ」


やっとの思いでそう返す。


「ただし、そなたの……その匂いゆえに、

扱いは難しい」


さくらは淡く笑う。


「その匂いは、私の弱点であり、旗印でもあります」


言い切る声に、

家老はわずかに視線を逸らした。


不快ではない。

むしろ危険なほど心地良い。


油断すれば、

この女の言葉に従ってしまいたくなる。


だから、

距離を取った。


「殿は明日、そなたを近侍として招く」


家老は退出した。

襖が閉じる。


静寂。

池の水音だけが遠い。


さくらは独りになり、

膳の前で息を吐いた。


(……戦はいつだ)


女を求められようと、

匂いが揺れようと。


自分を殺す者がいないなら、

この身は女にはならない。


それだけのことだ。


今夜の月は陰り、

城の闇は深く息をしている。


――明日の空気は、

もっと騒がしいだろう。


---


――翌未明。

まだ鶯の声さえ遠い時刻。


城の奥、薄暗い中庭に面した衛士詰所。

鎧は掛けられ、火桶に赤が残る。


その近くで、側侍たちが声を潜めていた。


「……本当に殿の側に置かれるのか?」


「そう聞いた。今夜、家老がそう言った」


「馬鹿な。女だぞ」


「女じゃない、“化け物”だ」


その言葉に、一瞬、沈黙が落ちる。


誰も笑わない。


「……匂いを嗅いだろ?」


「嗅ぎたかねぇが、近づけば否応なくな」


思わず鼻を擦る者もいる。


「不快じゃない。むしろ……」


言いかけて、言葉を飲む。

その続きを口にするのが怖い。


「気を抜けば心が緩む。

それが一番厄介だ」


若い侍が囁いた。


「あれは戦で使えるのか?」


年嵩の侍が首を振る。


「使えるだろう。

敵の大将の気を乱せるなら、それで十分だ」


「だが味方も乱される」


「殿がそれを承知で側に置くなら、何か策があるのだ」


あるいは――

ただ興味があるだけかもしれない。


「それに……剣だ」


誰かが呟く。


「力を見ただろ?

あの若武者、吹き飛ばされたって話だ」


「俺は実際に見た。

腕を伸ばしただけで、竹刀を持つ男が宙を舞った」


その語りに、ぞくりと空気が冷える。


「女でそれは……」


嫉妬が胸を刺す。


男の地位・体面・誇り。

そのすべてを、

“生まれ持った何か”に奪われる感じがする。


「……殿の側に置かれるのは、我らへの当てつけか?」


誰かが吐き捨てる。


「あれが殿のお気に入りになるなら、

我らの立つ場所はどこにある」


嫉妬がじわりと広がった。


だが同時に――


「だが、逆らえぬ。

あれに刃向かっても勝てん」


恐れも同じだけ蔓延した。


詰所の薄闇が膨らむ。


「……殿の側に仕える女。

だが、女じゃない。

あれは、もっと別の何かだ」


誰も続けようとしなかった。


ただ、

遠くの廊下を歩く足音が聞こえた瞬間、

全員が一斉に口を閉じた。


さくらが通ったわけではない。

ただ――

その可能性だけで沈黙が生まれるほど、

彼らの中で既に重い影になっていた。


そしてその影は、

城の中で日増しに濃くなる。

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