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29.座してのぞむ

――殿の間。


障子が静かに開かれた。


さくらが入り、

大太刀の影が

畳の端まで伸びる。


殿は座していた。

茶碗を手にしたまま、

目だけをゆっくり向ける。


誰も口を開かない。


風だけが、

さくらの香を運んだ。



殿は問いかけようとした。

戦の経過を、

戦果の詳細を、

敵国の崩れ方を。


だがその全ては

必要ではなかった。


さくらは一歩進み、

膝も折らず、

ただ言った。


> 「私は戦に出とうございます」




帰還の挨拶でも、

報告でもない。


――次を。


殿は茶碗を置いた。


沈黙の中で、

扇が軽く鳴る。


それは叱責でも賞賛でもなく、

理解の合図。


殿は笑う。


「戻って早々、

休みも求めぬか」


さくらは首を小さく振る。


「戦が動くのを

匂いで感じました」


「空気が、

まだ終わりを許していません」


殿は目を細める。


(……女の鼻か

刃の鼻か

どちらでも良い)


「そなたは、

まだ歩けると?」


さくらは答えない。


答えの代わりに――

ほんの僅かな頷き。


殿は笑った。

満足と愉悦の混ざった音。


「戦に出たいというのは――

戦がそなたを求めておるということだ」


扇が再び鳴る。


「よい」


「軍は整えてある」


さくらはわずかに目を瞬いた。


予想していたのか、

していなかったのか、

表情は見せない。


殿の声音が低く落ちる。


「そなたの歩みが

止まらぬ限り――

我が国の勢いも止まらぬ」


側侍の一人が

ぞっとして背筋を伸ばした。


殿は続ける。


「そなたは、

勝利を持ち帰ったのではない」


「戦を持ち帰ったのだ」


その言葉は、

賞賛の最高形。


(そなたが帰れば、戦が始まる)


殿は扇を閉じ、

合図する。


「行け」


「戦はまだ残っておる」



さくらは頭を垂れず、

深く礼もせず、


ただ――

背を向けて歩き出そうとした。


その一歩の前に

殿が言葉を投げかける。


「そなたが求めるのは

戦か?」


さくらは立ち止まった。


振り返らないまま、

静かに言う。


「……戦が私を求めます」


殿の喉が

小さく鳴った。


扇が音を立てた。


「ならば、

応えてやれ」



さくらは再び歩いた。


その背には

大太刀。

腰には太刀。


帰還の挨拶ではなく、

再出陣の意思が漂っていた。


殿は茶碗を手に取る。


「休ませるより、

動かす方が良いな」


家老が言う。


「殿……

あの者は……

休息とは……」


殿は微笑んだ。


「戦そのものに

休息などない」


障子が閉じられ、

間の空気が再び沈む。


殿は一人、

満足げに呟いた。


「――あれが帰ってきて

すぐ戦を求めたこと……

これほどの吉兆はない」


外では、

その女がまた歩き始めていた。


戦は続く。

歩む者がいる限り。


---


――しかし、

風の匂いが示した通り、

すぐに戦が起きるわけではなかった。


殿の命は下った。

軍は準備された。


けれど、

敵国連合の本陣崩壊はあまりにも急で、

周辺国も混乱しすぎていた。


戦は、

まだ形にならなかった。



城門を出たさくらは、

歩き続けると思われていた。


従者たちは距離を保ち、

若侍は陰から見守り、

民は祈るように見つめた。


しかし――

さくらはふいに

城下の道を降りた。


軍勢は動かず、

彼女だけが先へ行くと思われていた。


それでも彼女は

大太刀を背負い、

太刀を腰に差したまま、


戦場ではなく

自宅へ向かった。



町並みが変わる。

瓦が連なり、

井戸の音が聞こえる。


桃の香が風に混じり、

道端にいた犬が鼻を鳴らし逃げた。


通りすがりの行商人が

思わず頭を下げる。


さくらは何も返さず、

ただ歩く。


やがて門の前で足が止まる。

質素な屋敷。


戦国の女武者の家というより、

刀を休める小さな器のような場所。


戸を開ける。


中には侍女も、

出迎えもいない。


風が靴の音を吸い、

空気だけが落ち着いた。


家の中の匂いは

鉄でも土でもなく、

乾いた木と、

微かに残る花の香。


戦場の香りではない。



大太刀を壁に立て掛ける。

脇差の太刀を台に置く。


その音は、

戦場とは違う静けさを持っていた。


さくらは

肩紐を少し緩める。


(……重い戦も、

刀も……

置けば軽いものですね)


それは

誰にも見せない小さな息。


居間に入り、

灯りもつけず、

座敷に膝を折る。


外では風が動き、

城下の遠いざわめきが薄れる。


家は、

戦を受け止めない。


戦を拒むのではなく、

戦を知らない空気。


さくらは目を閉じた。


戦いがない時、

彼女は何をするのか?


斬らない。

語らない。

鍛えない。


ただ――

座る。


刀が壁に沈黙し、

桃の香が家の空気に馴染む。


この瞬間だけ、

戦は呼ばない。


(……戦がないなら

待てばいい)


それが

戦を歩く者の休息だった。


眠らず、

考えず、

ただ座る。


生き物でも人でもなく、

刃であることを

静かに保つ時間。


外は日が沈み、

夜が城下を包んだ。


家の中は、

さくらの息と木の軋みがあるだけ。


平穏。

だが平和ではない。


戦が来る前の

沈んだ余白。


女は、

その余白に身を置く術を知っていた。


――さくらは大人しく家に帰った。


それ以上も、それ以下もない。


ただ、

刀と風が彼女を待っているだけだった。

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