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28.戦の神話

――夕刻の荒野。


霧は晴れ、

風が乾いた土を擦っていく。


その中に、

ひとりの男が倒れていた。


敵国連合の将。

名は、もう意味を失っている。


鎧は砕け、

片足は泥に沈み、

息は静かに途切れかけていた。



側近だった二人が駆け寄る。


「将軍! しっかり!

もうすぐ味方の陣が――!」


将は、

その声に反応しなかった。


ただ、

遠くを見ていた。


まだ霧が残っている方向――


黒い影が歩いていった方向。


彼はようやく

唇を動かした。


「……あれは、人では……ない」


側近たちは顔を見合わせる。


「敵の猛将です……

ですが、まだ我らには策が――」


男は小さく頭を振った。


「策……戦法……

陣形……」


吐息が漏れる。


「――すべて、

届かなかった」


側近が男の肩を支える。


「まだ助かります!

喋らずに――!」


将はそれを拒むように

視線を空へ向けた。


「戦を……止めようとした。

国は皆、戦を恐れた」


腕が震え、

指が何かを掴もうとするが、

土しかない。


「だが……」


声がかすれる。


「戦そのものは……

歩いて来た」


側近の一人は

その言葉を理解できない。


「将軍……何を――」


将は笑った。


血の匂いより乾いた笑み。


「鬼娘……などと呼んでいたが……

違う……」


側近が息を飲む。


将は目を閉じ、

そのまま言い切った。


「――あれは戦の神だ」


周囲の風が止まった。


その断言には、

狂気も怨恨もなかった。


ただの理解。


ただの事実。


側近の手が震えた。


「ならば……

我らはどうすれば……」


将の呼吸が浅くなる。


「戦を拒めば、

戦は……おまえたちを喰う」


その言葉が、

最後の教えになった。


将の首がわずかに垂れる。


声は土に落ちた。


「刃を持たぬ国は……

滅ぶ」


そのまま――

男は動かなくなった。


風が顔を撫で、

瞼を閉じる。


側近たちは

その死に涙は流さなかった。


流せない。


なぜなら、

彼の死は敗北の延長ではなく――

理解の果てだったからだ。



その言葉は、

後に亡命者たちの口を通り、

周辺国の噂となる。


「鬼娘ではない」

「戦の神が歩いている」


そう語る死者の言葉は

人々の中で形を変え――

恐怖と信仰を混ぜた神話となっていく。


---


――夕闇が地を覆い、

戦の音が遠くへ沈んでいった頃。


さくらは、

ただ歩いていた。


勝利の凱旋でもなく、

軍の報告でもなく、

兵を率いる気配もない。


戦を終えた者が、

次の戦へ向かう途中の歩調。


軍勢は散開し、

後始末と負傷者の救護に回されている。


殿の使者も、

若侍も、

誰も彼女の歩く道を塞がない。


――道が

勝手に空くのだ。



城下の坂道に入る頃、

夕風が吹いた。


風は

さくらの桃の香を運びながら、

恐れと安堵の境界を撫でる。


城門の兵が

無意識に背筋を伸ばす。


(……また、歩いて戻ってきた)


数刻前、

敵国の本陣が消えたと

報が届いたはずだ。


さくらはそれを知らないし、

興味もない。


ただ、

刀の重さだけが

戦の結果だった。


坂を登りながら、

彼女は脇差の太刀に軽く触れる。


「……刃は、

まだ使えますね」


それだけ。


言葉というより、

刃との確認作業。


戦の評価は、

血の量ではなく、

刃の磨耗具合で決まる。



門前では、

民がまた集まっていた。


だが前の出立の時とは違い、

誰も声を発しない。


ただ、

その影を見つめる。


戦の神話となった女が――


いつもの通り

歩いて帰ってきた。


死者の噂も、

神話も、

崇拝も、


彼女の歩調を変えない。


民の中に老人がいた。

ゆっくり頭を下げる。


若い娘は、

息を止めて見つめる。


子どもが指をさす。


「……帰ってきた……」


母がその手を掴む。


(触れるな――

けれど目を逸らすな)



門をくぐる瞬間、

さくらは立ち止まった。


夕陽が黒髪を染め、

刃の影が門内へ伸びる。


そのまま、

淡々と言う。


「戻りました」


誰に告げるでもなく。

ただ、

刃に伝えるように。


城兵が慌てて跪く。


さくらは歩き出す。


声を掛けない者たちに、

無視されたと感じる者はいない。


彼女の帰還は、

称賛も報告も不要――


歩いて戻ることが

戦果そのものなのだ。



殿の間へ向かう廊下。


若侍が柱の陰から

その背を見つめていた。


叫びたくても、

言葉にならない。


(……あの人は……

帰ってくるのが当たり前なんだ)


生きるか死ぬかの話ではない。


勝利か敗北の話でもない。


――戦を歩いた者は、

歩いて戻る。


それが彼女の在り方。


廊下を抜けるさくらの足音は、

やはり響かない。


影だけが伸び、

刀の匂いだけが残る。


日暮れが城を染め、

戦が終わり、

次の戦が近づく。


その全てが物語る。


さくらの帰還は、

勝利報告ではない。

戦の継続だ。


彼女はただ

いつもの通り歩いて

戻ってきただけ。


それが――

国中にとって

何よりの戦果だった。

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