26.鬼と瞳
――城門がゆっくりと開いた。
朝陽は薄く、
風はまだ迷っている。
城下の道には、
すでに人だかりができていた。
武将を見るためではない。
軍勢を称えるためでもない。
一人の女を、
見るためだった。
馬の蹄の音が近づき、
軍列の前を歩く影が見える。
黒髪。
長く、揺らぎ、
陽光を拒むかのように艶を吸う。
背に大太刀、
腰に巨大な太刀。
女にしては大きすぎる影。
男にしても異形なシルエット。
――さくら。
民は息を飲む。
誰かが呟いた。
「……あれが……鬼娘……」
別の者が言う。
「鬼神だと聞いた……
戦を呼ぶ女だと……」
しかし、
その声の隣で老婆が囁く。
「違うよ。
あれは国を守る刃だよ」
子供が母の袖を引く。
「ねえ、あの人は……
女?男?
どっちなの?」
母は答えられない。
ただ、
視線が逸らせない。
若い娘は
手を胸に当てながら見つめていた。
(……綺麗……)
恐怖とも憧れとも、
分類できない感情。
香が風に乗る。
桃と鉄と、
微かな血と、
まだ見ぬ戦の匂い。
それが、
群衆の中の男性たちの呼吸を
瞬間止める。
「あれは……
人を狂わせる匂いだ」
「近づくな、目を合わせるな!」
声が走るが、
誰も動けない。
近づきたい――
遠ざかりたい――
どちらも正しいと
本能が告げてしまう。
さくらは人群れを見ない。
兵を見ない。
城を見ない。
ただ、
風を見る。
足音は響かない。
軍勢の槍や旗が隠す喧噪と違い、
彼女の歩みには音がない。
影だけが進む。
子供が小さく手を振った。
意味も知らず。
その手を母が慌てて下ろす。
(あれに触れるな)
だが子供は言う。
「……綺麗だよ?」
母は何度も唇を噛んだ。
(あれは綺麗であることが、
恐ろしいのだ)
軍勢が続き、
馬が進む。
しかし、
民の視界は
さくらの背だけを追い続ける。
風が、
一瞬吹いた。
香が濃くなる。
群衆の中で、
男が息を失い、
膝をついた。
自分への恐怖か、
あの女への憧れか――
分からずに。
老婆が小さく笑う。
「人か鬼かは、
あの娘が決めるんだよ」
門の外へ
さくらが歩き出た瞬間、
空気が変わる。
民の誰もがそれを嗅いだ。
出陣――
というより、
戦そのものが、
外へ出た。
門が閉じ始め、
それを見送る人々の胸に
言葉にならない余韻が残った。
恐れか、
憧れか、
信仰か――
正解は誰にも分からない。
ただ一つ、
共通することがあった。
彼女が帰れば国が広がり、
帰らねば国が終わる。
それを、
誰も教えられていないのに
民は悟っていた。
門が閉ざされる。
風が民の間を抜ける。
「……あれが、
新しい時代の影か」
誰かが呟いた。
その影は、
遠征軍の先頭で淡く揺れていた。
黒髪の女の背。
刃の影。
戦の匂い。
――恐れと憧れが
同じ形をしていた。
そして民は知った。
人が国を変えるのではない。
戦を歩く女が国を変えるのだ。
---
軍列の後方、
馬を曳く若侍が立ち止まった。
視界の先、
さくらの背が歩いていく。
大太刀を背負う影――
その影は、
軍勢よりも大きく、
国よりも長く見えた。
若侍は喉を震わせる。
(……言わなければ)
何を?
忠誠を?
憧れを?
己の命を捧げると?
――どれも、
彼女には届かない気がした。
声が喉の奥で生まれる。
「……さく――」
その瞬間、
風が変わり、
彼の声を奪った。
さくらは振り向かない。
振り向かれなくて、
安堵した自分に気づき、
若侍は小さく息を吐いた。
(……届いたら、
切られてしまいそうだ)
それでも、
言いたかったことはあった。
言葉にならない思いだけが
胸の中を焼く。
彼はただ、
その背を追うことしかできない。
――――――――――
暗い室内。
帳は閉じられ、
蝋の匂いが濃い。
三国の代表と軍師が座す。
老臣が地図を広げた。
「鬼娘は刃。
だが刃は――
柄があってこそ振るえる」
柄=殿。
軍師が言葉を継ぐ。
「大名を討てば、
鬼娘は指揮を失い、
暴走し、
国を飲み込む災厄となる」
「それこそ国を滅ぼす」
別の将が不快そうに唸る。
「女ごときに……
そこまで考えねばならぬのか」
亡命してきた陰陽師が
その言葉に割り込む。
「“女ごとき”と言った時点で、
あなたは既に負けている」
軍議が凍った。
老臣は淡々と進める。
「暗殺は容易ではない。
大名は城を出ない」
軍師が指したのは、
城ではなく――
「大名の側にいる者だ」
ざわ、と空気が揺れる。
「側近の誰かが裏切れば、
大名は守りを解く」
「毒でも刃でも、
正面ではなく背面から」
「大名を殺す者は、
やつの信じる者でなければならない」
軍議が静まる。
裏切りの策は、
戦そのものより醜いが――
鬼娘より現実的だ。
三国は合意した。
“大名暗殺策”が形を持った瞬間だった。
――――――――――
連合軍の先鋒が動いたのは、
霧がまだ地に残る時刻だった。
音はなく、
火も焚かない。
兵たちは祈るように歩き、
矢を番えた弓の影が
霧にぼやけている。
遠く――
黒髪の影が一つ。
封殺連合の兵は息を飲んだ。
「……鬼娘だ」
彼らは戦うために来た。
しかしそれは、
“討伐”ではない。
進軍そのものを止める戦い。
霧の中で矢が放たれた。
鋭い音が走り――
その刹那。
さくらは歩調を変えない。
矢は、
彼女の手で止まった。
掴むでも、
弾くでもない。
“矢が進む前に止まった”。
封殺連合の兵は理解できない。
(……何が……
どうして……
届かない……?)
さくらは言った。
「戦を拒む者ほど、
戦の中に立たされますね」
その声は、
霧より静かだった。
そして、
背の大太刀が揺れた。
最初の衝突は
叫びでもなく、
斬撃でもなく――
歩み一つで崩壊した。
霧が震え、
兵たちが後退する。
封殺連合の戦いは、
始まる前に折れた。
そしてさくらの歩は、
戦を引き寄せる歩だった。
――風が動く。
時代が裂ける。
戦が広がる。
終わりはまだ遠い。




