表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/121

24.風の噂

――夜の雪国。

焚き火の火が、

湿った木をじりじりと焼く。


亡命先の山村。

小屋の影に、

戦を逃げた者たちが身を寄せている。


彼らは兵ではない。

術者であり、僧兵であり――

封じるために戦場へ立たされた者たち。


その一人が、

焚き火の前で肩を震わせていた。


「……聞いてくれ」


地元の村人たちが

その声の震えに、

ただ黙って耳を傾ける。


「我々は……戦を止めに行ったんだ。

刀を止め、軍を止め、

戦そのものを封じるために」


焚き火が割れ、

火が弾ける。


「だが――」


語り手の目が焦点を失い、

火の明滅に揺れる。


「封じられるものなど、

そこにはなかった」


沈黙。


雪が軒を打つ音だけが聞こえる。


「鬼娘は……

歩くだけで術を殺した」


村人が眉をひそめる。


「術が、効かなかったのか?」


語り手は首を振る。


「違う」


その語気には、

恐怖ではなく“敗北の理解”が宿っていた。


「術は働こうとした。

だが――

働く前に、理が折れた」


焚き火に投げこむ薪が、

火に呑まれる。


「鬼娘は、

刀で我々を斬ったのではない」


「術の意味を斬った」


村人たちは息を飲む。


その言葉は、

戦を知らぬ者でも理解できてしまうほど

静かで真実味があった。


別の亡命者が続ける。


「大太刀が背にあるのに、

抜きもしない」


「逃げる我々に振るいもしない」


「それでも、

術は死に、

陣は崩れた」


その背後で

僧兵が、

自らの念珠を強く握りしめる。


「祈り……

祈りが通じない相手が……

いるとは……」


語り手が、

膝に手を置く。


その指は震えていない。

もう震え尽くした後の虚無。


「鬼娘は……

戦場では鬼神と呼ばれている」


「でも違う。

鬼神は、人の理解の外にあるものだ」


「鬼娘は――

理解の内側にいるのに、

我々の全てを否定する」


焚き火が小さく爆ぜた。


「人が作った理、

人が信じた救い、

人が頼った術」


「それらを、

必要ないと言った」


その言葉に、

村人たちの背筋がひやりとする。


亡命した陰陽師は微笑む。

苦笑でも嘲笑でもない。


「――あれは、

人の形をした“戦”だった」


火の中で薪が崩れる音がした。


「戦を止めようとする者の前で、

戦が足音を立てて歩いたんだ」


村人が息を呑む。


「逃げられると思ったのか?」


語り手は答える。


「逃げてはいる。

だが逃げ切れない」


「鬼娘は追わない。

戦の風が追う」


そして――

その言葉が

焚き火に吸い込まれるように落ちる。


「どこへ逃げても、

戦が来る」


「それが鬼娘の……伝説だ」



小屋の外では、

雪が静かに降り続ける。


焚き火の赤は寒さに負けそうだ。


だが亡命者たちが語るのは、

寒さより冷たいもの――

人が理解できない力の存在。


村人たちは炉端で手を組む。


語り手は、

乾いた口でひとつ息を吐く。


「彼女を討とうとする国は、

必ず滅びる」


「だが……」


雪の中、

その男はわずかに笑った。


「扱い方を知っている者は……

世界を変えるだろう」


焚き火の火が揺れる。


鬼娘伝説は、

今この瞬間――

逃げ延びた者の口から

他国の地へ浸食し始めていた。


---


――戦の残骸が風に流され、

血の匂いも焼け土の匂いも、

ひどく薄まっていく午後。


さくらは、

丘の上に立っていた。


村の喧噪は遠い。

兵や馬の気配も、

空気の重みもない。


ただ――

次の匂いがある。


風が指先に触れる。

その風には、

鉄も汗も混じっていない。


代わりに、

土の奥底で火が燻るような匂い、

遠い国境の空気が

ゆっくりとここへ流れ込んできていた。


(……戦の匂いが、

ひとつではなくなりましたね)


今までは

敵が一つの方向にいた。


だが、今は違う。


匂いは散っている。

北、東、そして西にも。


血が流れたのではない。

まだ戦は起きていない。


しかし、

戦を恐れた国が膝をついた瞬間――

領土の境が揺れた。


その揺れが

風となって現れる。


戦線が広がっている。


さくらは

大太刀の柄に触れた。


「戦を捨てた国が、

戦を呼んでしまったのですね」


風は答えない。

だが、沈黙は肯定の形にもなる。


黒髪が風に撫でられる。

何も香らない。

空気が“満たされすぎて”

香が霞んでいる。


それは、

戦の気配が空気を占めた証。


さくらは空を見上げた。


夕陽ではない。

曇天でもない。


戦場へ向かう前の空――

余白を持った空。


そこに、

まだ見ぬ戦場と、

まだ出会えぬ敵の意思が

薄い色で塗られている。


「殿は……

この匂いに喜んでいるのでしょうね」


声は柔らかい。

皮肉も恨みもない。


ただ事実を言った。


「戦が広がれば、

刃の出番は増えます」


風を吸い込み、

目を閉じる。


その瞬間――

遠くの気配が匂いに変わった。


嗤い。

怯え。

策謀。

降伏。

祈り。

喪失。


それらが風に混じり、

さくらの鼻先を掠める。


(……戦線は、

私の届かない場所にも

生まれつつある)


背の大太刀に触れ、

静かに言う。


「……たくさん咲かせることに

なりそうですね」


血の花か、

風の花か、

戦そのものの咲き方か。


空は淡い灰色を纏い、

その中に

無数の線が曖昧に走っているように見えた。


戦の線。


誰かが引き、

誰かが渡り、

誰かが切られる線。


その全てを、

風が運んできている。


さくらは笑う。


「刃は忙しくなりそうです」


その笑みは嬉しさでも悲しさでもない。


ただ――

戦があるなら、

そこへ行く。


女でも鬼でもなく、

人外でもなく、


戦を歩く者として。


風が再び吹き、

黒髪をゆっくりと揺らした。


戦線は広がっている。

それを最初に嗅ぎ取ったのは、

兵でも殿でもなく――

この女の鼻だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ