22.現実
――敵国:封印場。
戦を避けるための戦場が、
野に描かれていた。
僧兵が数百、
経と鉄鎚を携え並ぶ。
その前に立つ陰陽師たちは、
呪符の束を握る。
地面は焼けたように黒く、
塩と灰と血が混じった匂いがこもる。
「鬼娘は戦で育つ。
ならば戦を消す」
陰陽師の長が指を鳴らすと、
紙札が風に舞い、
風が止まった。
僧兵たちが胸の鉦を打ち鳴らし、
結界の綻びを探る。
「戦いが近づけば、
この場で戦気が断たれるはずだ」
「刀が動かなくなるはずだ」
「進軍が乱れ、
鬼娘は動けなくなるはずだ」
その“はず”だけが
この軍議の支えだった。
老僧が目を閉じる。
「戦を拒む場所を作る――
それが封印だ」
式が始まった。
地に血を垂らし、
土に印を切る。
呪が唱えられる。
結界が張られる。
風の音が死に、
空気が塞がる。
しかし――
それはひどく脆い希望だった。
◆
その頃、前線。
軍勢は
沈んだ空気を押し割りながら進む。
遠くに――
黒い霧の帯が見えた。
(封印の領域……)
若侍は息を呑む。
――その時。
さくらが歩を止めた。
背の大太刀が、
ひとりでに揺れるように見えた。
「戦に向けて、
一つ素振りでもしましょうか」
その声は、
戦支度というより
朝の習慣のような軽さ。
大太刀の柄を掴む。
片手。
風が逃げる。
空気が揺れる。
刃が抜かれる瞬間――
封印場を守る陰陽師の背筋が
同時に震えた。
(来た)
彼らは知らなかった。
結界は風と意思を縛るが、
刃は縛れないということを。
さくらは大太刀を軽く構えた。
刀身が月光を反射するでもなく、
ただ、在るだけ。
一歩。
振る。
◆
その一振りは――
剣技ではない。
ただの素振り。
だが。
空気が裂けた。
封印の結界が、
音を立てずに一部消えた。
僧兵の鐘が狂った音を返し、
陰陽師が色を失う。
「結界が……」
「断たれ……っ?!」
遠距離の素振りが、
呪術の領域を削ったのだ。
さくらの刃は
風を切らず、
風を再定義した。
封印場の空気が震え、
僧兵たちは急ぎ式を組み替える。
「術を重ねろ!
結界を二重に――!」
陰陽師は青ざめていた。
「……馬鹿な……
結界の外から、
中身を切るなど……」
◆
戦場の空気が変わる。
兵たちは感じた。
風が戻るのではなく――
刃が風そのものになったと。
さくらは大太刀を背に戻す。
「……素振りとしては、
まあまあですね」
彼女にとっては
ただの感触の確認。
敵国にとっては
封印の崩壊の兆し。
若侍は鳥肌を抑えられない。
(……この人は
戦う前に、
戦そのものを切ってしまった)
◆
封印場。
陰陽師の長が
唇を噛んだ。
「風を封じても無意味……
戦を封じても無意味……
――刃を封じなければならない」
老僧が苦笑する。
「封じられるのは刃ではない。
人の意志だ」
「だがあれは……
人の姿を借りた何かだ」
陰陽師たちは沈黙した。
封印の儀は続くが、
その儀が間に合う保証はなくなった。
迎え撃つではなく――
耐える儀式に変わった。
◆
前線で風が裂けた。
さくらは歩く。
「あんなものはまやかしです」
その声に、
若侍は戦慄にも似た憧れを覚えた。
戦は始まっていない。
だが、
戦の形は
今、変わろうとしていた。
---
――封印場。
塩と灰が撒かれ、
血で描かれた陣が地面を走っていた。
僧兵の鉦が鳴り、
陰陽師たちが呪を織り重ねる。
空気は閉じ、
風は囚われ、
鳥すら飛ばない。
その中心へ――
さくらが、
ただ歩いて入った。
黒髪が重く揺れる。
背の大太刀が影を裂く。
封印師たちがその光景に息を呑む。
(来た……
結界が働くはずだ……
彼女の歩が止まるはずだ……)
だが。
止まらない。
いや、
結界の方が避けた。
地面に刻んだ呪文の線が、
さくらの足が近づくたびわずかに揺れ、
まるで――
触れられたくないと退くかのように
歪んだ。
陰陽師の長が叫ぶ。
「封じろ!
戦気を断て!」
僧兵たちが祈りを重ねる。
太鼓が鳴らないのに、
胸が鳴り続ける。
だが――
その祈りの中心に、
さくらは立った。
静かに、
刀の柄に指を添えたまま。
そして言う。
> 「私は、まじないは信じません」
その声音は
嘲りではなく、
事実の告知。
陰陽師の長が顔を紅潮させる。
「人の理では捉えられぬ者よ!
術によってその力――」
さくらは遮る。
> 「あなた達がしているのは、
何の意味もない児戯です」
僧兵の祈りが止まった。
恐怖で。
結界が軋む。
術が反応し、
地は呻くように低く鳴った。
陰陽師は声を振り絞る。
「封じろ――!」
紙札が宙を舞う。
陣の光が立ち上がり、
風が逆流する。
戦を封じるための罰の風。
その中心に立つ女は、
刀を抜きすらしない。
ただ一歩進む。
そして――
術そのものが裂けた。
音はなかった。
呪の線が途切れ、
紙札が燃え、
陣が散った。
まるで
誰かが布を裂いたかのように。
陰陽師たちは膝をつく。
(……まじないが……
触れられる前に壊れた……)
さくらは大太刀を一寸も抜かず、
ただ淡々と言う。
「呪は、
刃の意思には勝てません」
その言葉の意味が
誰も理解できない。
刃の意思――
それは、
祈りより古いものか、
呪いより純粋なものか。
僧兵が震えながら叫ぶ。
「結界を張り直せ!
術を重ね直せ!!」
だが、
陰陽師たちは手が震えて印が結べない。
術が働かない。
心が折れている。
そこへ
さくらは背の大太刀に手を伸ばした。
「術で戦を止めたいなら――」
刃が、
静かに抜かれる。
風が逃げ、
光が裂け、
> 「まず、戦を理解しなさい」
振らない。
ただ抜いただけ。
なのに、
残った術の網が
一瞬で崩壊した。
地面の陣は白砂と灰へ戻り、
紙札は灰燼となり、
僧兵たちは祈りを止めた。
そこにいるのは
呪を斬る者。
“刃の理”の方が
“祈りの理”より古いと
世界そのものが認めてしまった形。
さくらは刀を背に戻し、
穏やかに言う。
「術は戦の外側で語ってください。
戦場に持ち込むには、
命が軽すぎます」
陰陽師たちは顔を伏せ、
僧兵は祈りの鈴を握りしめたまま動けない。
封印が
無音で解体された。
風が戻る。
だが、
戦の風ではなく――
刃の風。
若侍が遠くから見ていた。
言葉は出ない。
祈りより強い存在。
術より古い理。
刃そのものが、
戦の定義。
女ではない。
鬼娘でもない。
――戦そのもの。
そしてその中心に
黒髪を揺らすさくらが笑った。
「さあ、続けましょう」
その笑みは、
術や恐怖を斬り捨てた者の
始まりの表情だった。




