21.縋るもの
――敵国:深夜の軍議。
灯火が揺れ、
絹の屏風が戦を避けたい息で曇っている。
将たちの顔は疲労ではなく、
敗北の温度で青ざめていた。
老臣が口を開く。
「討伐は不可能。
軍では止められない」
若将が叫ぶ。
「戦わずに領土を渡すなど、
国の沽券に関わる!」
老臣は眼差しだけで黙らせた。
「沽券より存続が先だ」
沈黙。
そこで、
僧兵の長が前へ進む。
「……鬼娘を封ずる策を提案します」
その声は
軍議にいる全員の耳を、
強制的に静めた。
「陰陽師を南から呼びます。
怨霊を祓う術と、
結界の印を持つ者です」
将たちが動揺する。
「……迷信に縋るのか!」
「迷信ではない」
老臣が言い切る。
「今や鬼娘は、戦そのものだ。
戦の理に忠実な者を、
戦の理では抑えられない」
僧兵が続ける。
「勝てる者はおりません。
ならば戦わせないのです」
屏風が震えるほどの緊張。
「戦を呼ぶ女には――
戦が起きない世界を与えればいい」
将が震える。
「つまり……
戦を起こさせないよう、
国土そのものに結界を?」
僧兵は頷く。
「はい。
戦気を断ち、
“戦を望む者が死ぬ国”に変える」
その策は
国の現実を歪めるほどの狂気だった。
だが賛否は起きない。
全員、
常識で戦えない相手を
初めて前にしていた。
老臣は結論を下す。
「僧兵、陰陽師を集めよ。
封印の式を準備せよ」
「承知」
風が障子を揺らした。
それは、
鬼娘に対抗するため
人が“異界”を導入した瞬間だった。
戦場は刀から――
祈りと呪いの領域に移行した。
---
◆その頃――城:前夜
軍勢は整い、
城は眠らない。
だが、
最も静かな場所は庭だった。
さくらはそこにいた。
月の光だけが届く
広い石畳の上。
背に大太刀、
腰に太刀。
影が二つ。
どちらが人でどちらが刃か
見分けがつかない。
彼女は空を見ていた。
(敵が……動きましたか)
風が、
山の向こうに“何か”が組まれていることを
伝えてきていた。
結界。
祈祷。
封殺の意志――
それらは戦の前兆ではなく、
戦を拒む前兆。
さくらは柄に触れ、
刃へ語りかけるように言う。
「……明日は、
戦ではない戦になるかもしれません」
大太刀は
沈黙している。
腰の太刀は
刃鳴りを響かせず、
ただそこにいる。
さくらは微かに笑う。
「けれど……
あなたたちは刀です。
刀は、戦を切るもの」
風が
黒髪を揺らし、
桃の香が滲む。
「戦を止めたい者がいても――
戦が来るのなら、
切り開くだけです」
月光が刃を撫でるように落ちた。
「……明日は、
どの形で花が咲きますかね」
花――
血の花か、
風の花か、
祈りの花か。
さくらは目を閉じた。
そして、
刃に囁く。
「あなたたちは、
私を裏切らない」
「私も、あなたたちを裏切りません」
それは忠誠ではなく――
共存の宣言。
戦を呼ぶ者と、
戦を断つ刃。
風が止まり、
庭が息を潜めた。
夜は深まる。
戦は形を変えて、
明日に向けて沈殿していく。
さくらだけが、
静かにそれを嗅ぎ取っていた。
---
――夜が割れた。
薄明の空は青くもなく、
朱でもなく、
灰を引いたような不吉な色をしていた。
城下の鳴子が鳴り、
軍勢が動き出す。
だが、
いつもの出立とは違う。
太鼓が鳴らない。
鬨の声も上がらない。
風が重すぎて、
音が立たないのだ。
◆
若侍は馬を牽きながら、
息を吸い込んだ。
(……空気が、沈んでいる)
戦の前の緊張とは違う。
恐怖でもない。
囁くような――
拒絶。
風そのものが、
行軍を止めようとしているかのようだった。
ある老兵が呟く。
「……重たいな」
その声は
誰も笑わなかった。
ただ全員が、
同じものを感じていた。
風が、戦を嫌っている。
風が、朝を拒んでいる。
◆
城門がゆっくり開く。
さくらが現れる。
背の大太刀と、
腰の太刀。
その影が二つ伸びるが、
影には色がない。
風に揺れる黒髪は、
ただ静かに揺れる。
それだけで、
兵が息を止めた。
(……風が、
この女に従わない)
それは異常だった。
普段なら、
桃の香が流れ、
風が女に寄るはず。
だが今は逆。
風が逃げている。
(敵が……風ごと封じようとしている)
◆
殿は物見櫓から
その光景を見下ろしていた。
「……封印の気か」
声は驚愕ではなく、
愉悦に近い。
「敵は戦わず、
戦そのものを封じにきたか」
家老は震える。
「殿……
これは……
戦の理を壊すものですぞ」
殿は扇を閉じ、
微笑んだ。
「良いではないか」
「理が壊れる時、
覇者が生まれる」
◆
軍勢は歩き出す。
旗がはためかない。
風が止まっているからだ。
音のない行軍。
声のない出立。
兵は皆、
自分の鎧が重くなったと錯覚する。
(いや……
鎧ではなく、空気が……)
若侍は前を見る。
さくらは歩いている。
まっすぐ。
呼吸すら変えず。
「……空気が重いですね」
彼女は独り言のように言った。
だがその背は、
風を拒む空気を
裂きながら進んでいた。
誰かが呟く。
「鬼娘が歩くと……
風が避ける……」
別の兵が震える。
「戦を避けたいのは敵だけじゃない……
空気ごと……
世界が拒んでいる……」
◆
しかし、
その拒絶の中心にいる女は
ただ歩く。
刃を背負い、
刃を腰に差し、
風が逃げても、
空気が重くても、
進む。
(歩けば変わる)
それが
彼女の生き方であり、
戦の仕方。
進むたび、
重い空気は割れ、
避け、
後ろに流れる。
軍勢は、
その割れた空気の後を
ただ追うしかなかった。
まるで
闇の中を
刃が道を作っていくかのように。
◆
この朝の異様さは
兵だけが知る記憶になるだろう。
――戦そのものが
拒まれた朝。
だが、
拒んでも進む者がいる。
その名はさくら。
背の刃がわずかに鳴ったとき、
若侍は悟った。
(風が逃げても、
刃は逃げない)
戦は始まる。
拒絶の空気を踏み破って。




