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2.人の口に戸は立てられぬ

――噂は、想像以上に“高い場所”へ届くのが早かった。


城下の小さな酒場で語られた話が、

翌日には侍の耳へ、

三日後には城代家老の書院番へ、

そして一週間も経たぬ頃――


権力者の座敷に火種のように転がり込んだ。


「……女で、男を吹き飛ばす?」


老いた大身の武断派大名は、半信半疑で酒を口に含んだ。

眉間に刻まれた皺が深まる。


「荒唐無稽よ。だが……」


耳を貸す価値はあった。

戦国という時代、

異才は武器だ。


「名は?」


「さくら、と」


「花の名か」


その名の柔らかさが、逆に興味を引いた。


側に控える若侍が、気取った声で言う。


「民草の噂に過ぎませぬ。

女が男を打ち負かすなど――」


その言葉を遮るように、

大名は杯を置いた。


「ならば、確かめよ」


静かに落とされた声音に、

座敷の空気が張った。


「この国は大きく動く。

侮られていても使える駒ならば拾っておけ」


興味というより、

それは戦国の嗅覚だった。


◆噂が真なら、利用価値がある。

◆虚言なら、処分するだけだ。


それだけの算段で、

命令が下された。


「密かに呼べ。

女と分からぬよう配慮もしてやれ――噂が本当なら、面倒が起きる」


家老が頭を下げる。


その夜、

大名はひとり残って、

薄く笑った。


「……匂いで正体が漏れる女、か。

面白いものよ」


戦国の権力者たちは、異物を恐れるよりも先に利用する。


噂を流した若武者の逃避は、

知らぬ間に国の歯車を動かしていた。


――さくらが呼ばれる。


――召しの使いが帰った後、

さくらは静かな風の中に立っていた。


城へ呼ばれる。

それは、誉れのようで、

罠のようでもあった。


(……また、隠せと言うのだろうな)


さらしを捨てて以来、

胸は軽かった。

息は深く吸えるようになった。


だが、

解放したところで消えないものがあった。


匂い。


桃の皮を爪で傷つけた瞬間の、あの甘い気配。

密室では濃く、

青空の下でも十歩も近づけば、誰かの眉が動く。


(こちらの意思なんて、関係なく滲む)


皮膚から漏れるように、

血流の熱が空気に染みるように。


それは、

自分のさがの告白であり、嘲笑でもあった。


剣を振ろうが、声を低く整えようが、

この匂いひとつで、

自分は“女”として扱われてしまう。


(……無駄な努力だ)


だから隠すことをやめたのだ。

隠せないものを隠し続けるほど弱くない。


ただ、

大名の前に立つとなれば話は別だ。


権力の目ほど、値踏みの視線は鋭い。


(どう思うだろうな……

この匂いを。

呪いか、旗印か?)


ふと、

竹林の風が肌を撫でる。

葉擦れの音が、胸の奥のざらつきを洗う。


(どうでもいいさ)


さくらはそう呟いた。


“隠せと言われても、もう隠せない”


それは弱音ではなく、

奇妙な解放だった。


自分の匂いは、

自分が消したいと思っても世界に漏れてしまうのなら――


(それも、私だ)


その認識に至って以来、

彼女の背筋は以前よりもまっすぐになっていた。


そして、

城に向かう足が自然と前へ進む。


その匂いが、

これから誰の運命を狂わせるのか、

さくらはまだ知らない。


---


――城門前。


石垣の影が長く伸び、

侍たちの鎧が冷たい光を返す。


さくらが歩を進めると、

最初にざわついたのは門番ではなく、

空気だった。


風が一瞬、甘くなる。


桃を割ったときの、

果汁が指に染みるような、淡い匂い。


近衛の侍たちがわずかに呼吸を乱し、

互いに顔を見合わせる。


(……噂の)


誰かが小声で呟いた。


だが声にする者はいない。

彼らは武士、

心の揺らぎを悟られたくない。


中門へ案内する側仕えが一歩進み出る。

若いが礼法に通じ、

役目に忠実な侍だ。


「さくら殿、こちらへ」


言葉は整っていた。

だが、距離が縮まった瞬間、

その侍の喉が小さく鳴った。


(まずい……近すぎる)


彼は知らず知らずのうちに息を浅くし、

視線を逸らした。


匂いは不快ではない。

むしろ――

よすぎる。


油断すれば、

呼吸がその甘さを追ってしまい、

思考の端が緩む。


「……お、お足元にお気をつけて」


声が微かに裏返る。

自分で驚く。


平静を保て、

ただの女の香りではない、

そう言い聞かせる。


だが心の底で理解していた。


この匂いは、

人の“理性の壁”をゆっくり押す。


(たしかに……隠せぬものか)


彼はさくらの横顔を盗み見る。

背筋が伸び、

表情は揺れていない。


本人は慣れ切っているのだろうか?

それとも、

この匂いが他者を揺らすことに鈍感なのか。


城の奥へ歩みながら、

侍は胸中で苦笑した。


(こんなものを前にして、大名はどう対処するのか……)


その疑念は、

やがて現実となる。


――薄い廊下の対面から、

別の侍が近づいてくる。

数歩離れた瞬間、眉が動いた。


「……っ」


顔には出さないが、

心の中で揺らぐ。


これは確かに、ただ者ではない。


さくらは、

何も知らぬ顔で歩き続ける。

だが――


案内の侍には気づかぬ表情で、

胸の内に淡い諦めを浮かべていた。


(まただ……

どれほど広い空でも、十歩以内なら気づかれる)


その思いはもはや苦痛ではない。

ただ、

受け入れた自分自身の影のように寄り添っている。


廊下の向こうに、

大名の間が待っていた。


この匂いを、

権力の眼がどう見るのか。


世界がまた一段、

大きく動こうとしていた。

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