19.欠けない刃
――まず、城に報が届いた。
急使は馬を潰しながら駆け、
廊下を転がるように膝をついた。
「殿――!
遭遇を避けていた敵軍、
一陣で崩壊しました!!」
家老が扇を落とし、
側侍が口を開けたまま声を失う。
殿は茶碗を置き、
静かに問う。
「……遭遇は?」
急使は震える。
「一振りです」
殿が目を細める。
「一振り?」
「はい……
大太刀の影が揺れ、
五人が落ち、
その後は……
逃げ惑い、
矢も通じず……
崩壊、です」
しん、と座敷が凍る。
殿は扇を開き、
小さく笑った。
「――見たかったものを、
確かに見せてくれたな」
家老が恐る恐る口を開く。
「殿……
戦の理が崩れます。
それは統治の理も――」
殿は扇を閉じる。
「理など、
力で塗り替えるものだ」
その声音には
恐怖ではなく――
愉悦が宿っていた。
◆敵国:軍議
砦の軍議の間は、
重い沈黙に支配されていた。
報告を終えた斥候は、
膝をついたまま震えている。
「……鬼娘が……
刃を掴んで……
矢を……
止めました……」
将たちが声を荒げる。
「矢が止まるか!」
「見間違いだ!」
「心が折れたのだろう、
蚤のような――」
老臣がそれを遮った。
「いや。
矢は届いておらぬ」
部屋が凍る。
老臣は斥候の目を見て、
その震えに嘘の色がないことを知った。
「矢を掴んだのだ。
見ていた者がいる」
若い将が震えながら問う。
「女は……
何者なのだ」
斥候が掠れ声で言う。
> 「黒髪が……
長く……
風で揺れただけで……
誰も近づけない……
人では、ありません」
誰かが吐き捨てるように呟いた。
「鬼娘だ」
その言葉は
もはや侮蔑ですらなかった。
“恐怖に意味を与えるための名”だった。
別の将が言う。
「いや――
娘などという柔い言葉は要らぬ」
「鬼だ」
「人外だ」
「刀を背負った災厄だ」
老臣は目を閉じる。
「……名が変わった時、
時代が変わる」
ざわついた軍議を
一言で切った。
「鬼娘は既に“娘”ではない。
《鬼神》と呼ばれておる」
誰も否定できなかった。
それが現実だったからだ。
◆軍略の崩壊
「戦わずに領土を奪え」
という策は、
たった一振りで瓦解した。
戦を避けようとしたのに、
戦自体が追ってきた。
老臣は厳かに言う。
「戦を避けることこそが
あの女を育ててしまったのだ」
若い将が声を荒げる。
「避けられなければ、
どうすればいい!」
老臣は、
「戦を終わらせたい者ほど、
あの女に近づいてしまう」
その矛盾に全員が言葉を失う。
「戦を止めたい者ほど、
戦を呼ぶ女に出会う」
老臣の声は震えていなかった。
ただ現実しか語っていない。
軍議の中で誰かが呟いた。
> 「人の形をしているが……
神だ。
生きた戦だ」
◆城の殿
殿は一人庭を眺め、
夜風を吸う。
「鬼娘ではない。
鬼神となったか」
その声は、
戦を歓迎する者の声だった。
扇が開く。
「よい。
時代を変えるものが欲しかった」
刀を持った鬼神――
人外の女。
殿の笑みは、
もはや政治のそれではない。
災厄を飼い慣らした男の笑いだった。
---
――丘に風が戻った。
兵の悲鳴も、
矢の唸りも、
足音の奔りも、
すべてが遠ざかり、
戦の余韻だけが
土と空気に残っていた。
さくらは草むらに腰を下ろし、
背から大太刀を丁寧に外す。
長い黒髪が揺れ、
刀身へ落ちかかる。
大太刀は沈黙していた。
だが、
その沈黙は“疲労”ではない。
仕事を終えた武器の静けさ。
さくらは刃を撫で、
指先で光の反射を確かめる。
「あれだけ切っても――
刃こぼれなし」
声は小さく、
満足でも驚愕でもなく、
ただの事実確認。
刃は一度に
一人分ではなく、
五人分の肉・骨・意志を斬った。
それでも欠けていない。
(鍛冶、よくやりましたね)
脇差として差している巨大太刀も、
同じく無傷。
「サビないよう手入れをすれば、
全く問題なさそうですね」
穏やかな評価。
戦で人を断ち、
軍を崩し、
噂を変え、
時代を揺らした直後とは思えない。
さくらにとっては、
切れるかどうか、
それだけが重要。
血はすぐに払われた。
汚れや怨念は
刃には残らない。
問題は――
使い続けられるか、だけ。
さくらは太刀を見つめ、
小さく笑った。
「戦う者の刃ではなく、
戦を断つための刃ですね」
風が吹き、
桃の香が刃にかすかに触れる。
刀はその香を吸い、
また研がれたように見えた。
若侍は
少し離れた場所で
その光景をただ見ていた。
(――この人は
戦の余韻を、
“刀の状態”で判断している)
勝ったのか、
敵が死んだのか、
そんなことには触れない。
ただ、
刃の働きが
想定通りだったかどうかを
確認している。
さくらは背へ大太刀を回し、
腰の太刀の柄を軽く押して位置を整える。
風が、戦の匂いを払っていく。
その中で
さくらは独り言のように呟いた。
「……よく切れますね。
では、また使いましょう」
それは刀に向けられた言葉であり、
戦に向けた言葉でもあった。
戦の余韻が静かに消え、
残ったのは
刃の静謐。
戦の評価は
戦場ではなく、
刃の状態で決まる――
そんな思想を持った者の眼差し。
黒髪が風に揺れ、
刀の影が二つ、
土に落ちる。
戦を断った女は、
次の戦に備えて
刃を撫でていた。
その姿こそが、
人外と呼ばれる所以だった。




