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18.掴み取る手

――戦場はまだ形になっていなかった。

ただ、空気が騒いでいた。


敵軍は布陣しない。

城を囲わない。

旗も立てない。


遭遇を避けるために散開し、

村ごと飲み込もうとする、

“戦わない侵攻”。


だが

その策は――

風によって破られる。



さくらが歩くと、

風向きが変わる。


背の大太刀が揺れるたび、

敵の斥候の位置が

まるで匂いでわかるように

肌に触れた。


(……右前方。

気配が濃い)


若侍は

その直感の鋭さに言葉を飲んだ。


(戦場を“探している”のではなく……

戦が、彼女を探している)



敵軍は――

彼女を避けるべく

移動を続ける。


「布陣をせず、

交戦を避けよ!

鬼娘を遠ざけろ!」


命令が飛び、

隊列が散る。


だが、

その動きこそが

自らの居場所を晒していた。


さくらは歩みを止め、

風を吸い込む。


「……いましたね」


若侍は息を呑む。



敵軍は丘に伏せていた。

射手が並ぶ。

矢が番えられる。


「射て!!!!」


一斉射。


その瞬間――

矢が空気を裂いた。


風が鳴る。


さくらは腕をわずかに上げ、

ひとつ――

矢の束を掴んだ。


片手で。


馬上の武者たちが

声を失う。


矢を掴んだ手は揺れず、

そのまま地面に落とした。


(……嘘だろ)


敵兵の理性が

音を立てて崩れる。



さくらは一歩踏み出す。


背の大太刀が

ゆっくりと抜かれた。


刃渡り五尺――

彼女の背丈に迫る鉄。

それなのに

その抜刀の音は静かだった。


若侍は震えた。


(振り回すのではなく……

ただ、持っている)


敵軍は第二射を構えるが、

指が震え、

弓弦が鳴らない。


「来るな……

来るなッ……!」


さくらは構えない。


片手で大太刀を

肩の高さに持ち上げ――


まるで

小枝を払うように振った。


その一閃が、

丘の空気を変えた。


音は遅れて届く。


ザン。


それは

何かが“切られる音”ではなく、


何かが“終わる音”。


敵兵の五人が、

同時に膝から崩れ、

胸元に赤が咲いた。


花のように。

紅の花弁が、

土に散った。


若侍は息を忘れる。


(……一振りで……

五人……)


刃は重いのに、

振りは軽い。

動きは無造作なのに、

結果は徹底的。


刃についた初めての血が

月光を吸う。


大太刀が――

初めて“血を知った”。


その瞬間、

刃が微かに震えた。


まるで――

生を得たかのように。



敵軍は恐慌した。


「無理だ!

隊列崩せ、逃げろ!」


戦わずして奪う策。

その最初の戦闘ですら、

既に破綻していた。


さくらはその背中を見ても、

追わない。


ただ、

大太刀をひと振り――

血を払う。


桃の香が風に混ざり、

血の匂いと絡む。


若侍はその場で

膝をつきかけた。


(鬼娘じゃない……

鬼神だ)


敵が逃げ、

丘が静かになった。


大太刀は、

初めて血を吸ったのに、

なお乾いて光っていた。


さくらは背に刃を納めながら言う。


「……これで、

この子も戦を知りました」


その声は、

刃への言葉であり、


敵国への宣告でもあった。


---


――丘が崩れ、

死臭より先に恐怖が広がった。


逃げる兵は叫ぶ。


「近づくな、近づくな!!

距離を取れ、距離を――!」


しかし距離を取っても戦は変わらない。



弓兵が林に伏せ、

弦を引き絞る。


震える指で放たれた矢は、

風を裂いて一直線に飛ぶ。


――だが。


さくらは振り向かない。


矢が届く瞬間、

片手が上がる。


掴む。


まるで

落ち葉を受け取るような

軽い手つきで。


弓兵の心が砕けた。


(……見ていないのに……

何故、掴める)


次の矢も、

さくらの手の中で止まった。


指は微動だにせず、

矢羽が折れて落ちた。


そして

さくらは歩みを止めない。


「もう来ていますよ」


敵兵には聞こえない声だ。

だが風がその意味を伝えた。



距離を取れと言われた兵たちは、

恐怖のあまり散開しすぎた。


小隊はばらばらになり、

孤立した二人が

震えながら立ちはだかる。


「こ、来るな!」


刃を向ける瞬間――


さくらが片手で柄を取り、

何でもないように振った。


大太刀は、

枝払いの一動作にすぎない。


だが。


兵の身体は

まるで紙を裂くように

静かに断ち切られた。


切断面は美しく、

音すら生まれない。


「……紙……みたいに……」


その場にいた別の兵が

呟いた瞬間、

足がすくんで動かなくなる。


己が紙であることを知った震え。



走る兵が

叫び声を上げ続ける。


「距離を取れ!」

「弓を構えろ!」

「囲むな!近づくな!」


だが、

その言葉は絶望の認識だった。


近づけば紙くずのように斬られ、

遠くから矢を撃てば掴まれる。


“戦いの理”が成立しない。


戦術が死んだ。



ある射手が

狂気の中で叫ぶ。


「もっと離れろ!

もっと遠くから射てば――!」


その矢は、

丘の向こうからさくらを狙う。


距離は十分すぎる。

普通なら気が付かない。


だが。


風が変わった。

嫌な予感が射手の指先を凍らせる。


その瞬間――


矢は空中で止まった。


いや、止まって見えただけだ。


さくらが掴んだのだ。


距離に関係なく。


射手は膝をつき、

弓を落とした。


(もう……戦えない)



敵軍は崩れた。


指揮官が叫ぶ。


「撤退だ!!

深追いをするな!

全軍、散開して逃げ――」


声は途中で止まる。


なぜなら、

逃げるという概念も

意味を失っていたからだ。


“鬼娘”は追う必要がない。


風と噂と恐怖が

逃げる兵を勝手に壊す。


誰も振り返らず、

誰も隊列を見ず、

隊は軍ではなく

ただの群れになった。


兵たちは悟る。


――遭遇したら終わり。

――距離を取っても終わり。

――戦う前に終わる。


戦とは、

兵の心が折れたときに始まる。


そして今、

彼らの心は完全に折れた。



丘の上に、

大太刀の影が一つ。


さくらは血を払うこともなく、

背へ刃を戻した。


「……終わりましたね」


敵軍が崩壊するのを、

追わず、

見向きもせず、


ただ、

彼女は次の風を嗅いだ。

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