17.戦ってはならない
――夜の色が深まり、
城の灯りが一つ、また一つと増えてゆく。
それは不自然な明るさだった。
眠らない城の証。
遠征の使者が戻り、
軍議が開かれ、
廊下を駆ける足音が絶えない。
家老は青ざめ、
側侍が短く命を交わす。
「敵が……動いた」
その言葉だけで城が揺れた。
砦に籠るのではない。
退いたのでもない。
ただ、
“鬼娘が刃を得る前に戦を終わらせよ”
――その策を、
敵が実行に移したのだ。
一夜にして、
複数の村が降伏を迫られた。
人が殺されることなく、
領土が削られていく。
「戦わずに奪う……」
家老が吐き捨てる。
「鬼娘を恐れてのことだ」
側侍が唇を噛む。
殿は静かに笑っていた。
「だからこそ、
こちらは戦わせる。
“戦を避けたい”という敵の策を
壊すのは――」
扇が閉じられる。
「戦そのものだ」
◆城下
夜の風がざわめき、
民家の障子が揺れる。
村から逃げ込んだ者が震えて言う。
「敵兵は……
戦わず、ただ命じるのです。
“降れ”と……
断れば斬られると言うのに、
誰も斬られない……!」
民は理解が追いつかない。
戦とは、
剣が鳴り、
血が流れ、
叫びが上がるものだ。
だが今回の戦は――
刃を抜かずに領土を削る戦。
だから余計に恐ろしい。
「鬼娘を避けようとしておる……」
酒場で誰かが呟く。
「刀を持った鬼神が来る前に、
戦を終わらせようとしてるんだ……」
沈黙。
◆城の一隅
若侍は、
廊下から庭へ出る影を見た。
背の大太刀、
腰の巨大な太刀――
その女の歩みは、
夜の空気を切り裂いていた。
戦が近いことを、
既に彼女は知っている。
◆大名の寝所
殿は障子越しに夜の風を嗅いだ。
「……あの女は、
この戦を喜ぶか、
それともただ受け入れるか」
家老は頭を下げる。
「どちらにせよ、
敵は戦を恐れております」
殿は微笑する。
「恐れは、
最も強い武器となる」
◆敵側の砦
灯火が粗末な軍議を照らす。
「鬼娘が刃を得た。
今動けば――
遭遇せずに領地を奪える」
誰も賛否を言わない。
ただ、その戦略の卑怯さに
耐えるしかない。
老臣が責めるように低く言う。
「戦を恐れ、戦を避ける――
それは、
戦国の理を壊す行為だ」
別の将が答える。
「理などどうでもいい。
あれが前に出たら、
理ごと斬られるのだ」
◆前夜
城の灯りは眠らず、
鍛冶場の炉がまだ赤い。
さくらは
静かに庭に立っていた。
風の温度が変わる。
(明日か、
明後日か――)
人の都合や政治ではなく、
“戦の気配”が
彼女の皮膚に触れている。
大太刀の柄を
指が撫でる。
腰の太刀が
重心をわずかに調整する。
さくらは夜を見た。
「戦いに来ないのなら、
こちらから行くことになりますね」
月が雲を割る。
刀身だけが光を帯びる。
城の空気はざわめいていた。
敵は戦を避けようとし、
殿は戦を求め、
民は怯え、
侍は焦り、
若侍の心は燃えている。
そして彼女だけが――
戦そのものの中心で、
静かに風を撫でていた。
夜が沈む。
戦は明日、
形を持ち始める。
---
――夜が明けた。
城門が開く音は、
いつもより重く響いた。
さくらは馬に乗らない。
歩く。
背に大太刀、
腰に巨大な太刀。
その姿が城下を通る瞬間――
空気が裂けた。
人々は仕事の手を止め、
戸口から身を乗り出し、
口を覆う。
「……あれが……」
「ほんとに背負ってる……
あんな大きさの刃を……」
「重いどころじゃないだろ……
あれ、旗だろ?」
侍たちですら声を潜める。
その視線は、
姿よりも――
刀へ吸い寄せられていた。
刃渡り五尺の大太刀。
人の背丈を越える鉄の影。
腰の太刀ですら、
常の刀を子どもの玩具のように見せる。
誰かが呟く。
「……鬼娘だ」
その言葉が
城下を走った。
「鬼神の刃を持つ女だ」
「武神か、
災厄か……」
◆噂の渦
噂は瞬きより早く増幅した。
「刀鍛冶が泣きながら作ったらしいぞ」
「いや違う、
刃の方が女に従ってできたんだ」
「人が作ったものじゃない、
戦気が形になった刃だ」
「背負えば影が二つできるって……
あれは人の影じゃないんだ」
言葉が形を変え、
恐怖と敬意が混ざる。
子どもですら、
息を呑んで見つめた。
屋根の上の猫が
彼女を警戒して動かない。
風は
桃のような香りを
微かに運んでいる。
それが噂へ油を注ぐ。
「匂いで人を惑わせるらしいぞ」
「男が側に寄ったら
平静を保てなくなるって……」
「むしろ戦場の兵は
その匂いに引きずられて
斬られるんだと」
◆侍の視線
城下の侍たちは、
視線を合わせない。
剣の腕に自信ある者ほど、
あの大太刀を見て
ひそかに息を詰める。
(……あれを振れるのか)
(あれを、扱えるということは……)
侍たちは気づいてしまった。
“自分たちの剣は
この女に比べれば
ただの儀式にすぎない”と。
武の世界そのものが
彼女に“上下”を定義されている。
◆若侍の眼
その中で、
たった一人
目を輝かせる者がいた。
若侍。
彼は、
さくらと刃を
人ではなく
“神への捧げ物”のように見ている。
(この光景が、
自分の運命になる)
人々の恐怖とは違う、
盲信と陶酔。
◆歩むさくら
彼女は噂を知らない。
人が囁き、
視線が刺さり、
跪くような空気が生まれているのに――
何も感じていない。
ただ、
戦の匂いを嗅ぎ分けている。
喧騒ではなく、
風のわずかな変化に。
さくらは呟く。
「……敵は戦を避けようとしました。
ならばこちらが、
戦を始めるだけ」
声は静か。
だが、
それが周囲の耳に届いた瞬間、
空気が震えた。
“戦を避ける策”を
破るのは――
この女だ。
そして、
背と腰の刃が
新しい時代を切り裂く存在だ。
城下を抜けるさくらの影に、
人々は言葉を結べない。
畏れ、
祈り、
期待、
嫌悪、
崇拝。
どれも正しく、
どれも違う。
ただ確かなことは――
この女は戦国の論理では測れない。
彼女が出陣するという事実こそ、
敵にとっての戦の始まりであり、
城下にとっては
時代の変化を目撃する
最初の瞬間だった。




