16.絶望の花
――数日後。
国境の砦に、遅れて震えた報が届いた。
敗走兵が、
声を掠らせて伝える。
>「……鬼娘が、刃を……得た……
それも、人が扱うものでは――」
軍議の間に沈黙が落ちた。
老臣が最初に言葉を返す。
「その刃は?」
兵は震えながら両手を広げる。
> 「背に負う大太刀。
腰に差す太刀。
……どちらも常の大きさでは……」
将たちがざわつく。
「そんなもの振れるか」
「架空の話では?」
老臣が兵の目を見る。
その眼には、
戦場で真実を見た者の色があった。
「振れる」
兵は呟いた。
> 「振られるのではなく……
刃の方が従っておりました」
その比喩が、
軍議の空気に亀裂を入れた。
若い将が声を荒げる。
「女ひとりに国が振り回されてなるものか!」
老臣が静かに言う。
「……振り回されとるのは、
その刃に惹かれた人らの心じゃ」
将たちは顔をしかめる。
「何を言う」
老臣は茶を置き、
その湯気の揺れを見つめる。
「戦場で力を見た兵は、
恐怖ではなく――
惹かれたのだ」
兵が頷く。
> 「鬼娘は……
ただ斬るのではなく……
魅了して、斬る」
将たちは息を詰めた。
「……魅了?」
老臣は指で机の木目をなぞりながら言う。
「噂で聞いたことがある。
遠く離れていても気配が知れ、
近ければ心を揺さぶる匂いを持つ女――
戦の才と、
人を惑わせる体臭」
若い将が舌打ちする。
「妖術か!」
「違う」
老臣の声が重い。
「それは、
戦に愛された者の匂いだ」
兵が続ける。
> 「斬る前に、
心が折れるのです……
敵も味方も」
将たちは沈黙した。
その現象は、
刀や力による恐怖ではない。
“戦う意思そのものが
折られる”ということだ。
老臣は結論を出す。
「――ならば、
数や布陣など意味を持たぬ」
「どうするつもりだ」
「簡単じゃ」
老臣は扇を閉じる。
「鬼娘が戦場に来る前に、
戦を終わらせるのだ」
沈黙。
その意味は――
侵攻ではなく、
戦わずに土地を奪え。
戦が起きる前に、
政治で決めてしまえ。
しかし将の一人が
苦い声を漏らす。
「だが……
もしあれが前に立つなら?」
老臣は目を閉じる。
「先んずるのだ。
戦う理由そのものを奪え」
そして、
誰にも言わない言葉を胸に落とす。
(あれは兵ではなく――
戦の形そのもの
だ)
鬼娘が刃を得た。
その報が国境を越えれば、
戦国の秩序が揺らぎ始める。
戦をする者は皆知っている。
――形を変える者が現れた。
砦の風が鳴る。
桃のような匂いではない、
鉄の冷たい匂い。
だがその風は、
遠い城下で鍛えられた
大太刀の影を嗅ぎ始めていた。
---
――夜。
城の石垣が冷え、
庭の木々が音を吸い込んでいる。
風の匂いが変わった。
戦の前触れは、
太鼓でも軍令でもなく――
空気の温度。
さくらは廊下を抜け、
静かな庭へ出た。
月は薄く、
影が濃い。
背の大太刀が、
その影を二つに裂いていた。
刃渡り五尺の長大なる刀。(150センチ)
人の背丈に迫る鉄の獣。
さくらの身長は5尺6寸余り。(170センチ)
刀は、それに匹敵する。
腰の太刀も、
脇差とは呼べない長さ。
2 尺6 寸あまりの刃が帯の重みを支えている。(80センチ)
さくらは背へ手を伸ばし、
大太刀の柄をゆっくり取った。
抜かない。
ただ、その柄を撫でる。
(……風が鳴りますね)
戦が近い。
遠くの国境か、
村か、
城下か――
まだ形は定まっていないが、
戦を望む者の気配が、
風に混ざっている。
それを嗅ぎ取れる者など
ほとんどいない。
しかしさくらは、
自分の匂いが世界に影響していることを
無意識に知っている。
刀の柄をゆっくり握る。
背の大太刀が、
まるで返事をするように
冷たい震えを返した。
(よく出来ましたね)
刃を撫でる。
その動作は、
愛玩というより――
器の点検。
戦が来るのは決まっている。
ならば刃が応えるかどうかを
確かめておく。
月が雲を割り、
銀の光が刀身の縁を撫でる。
太刀は、
静かに腰で呼吸している。
大太刀は、
背で眠っている。
さくらは呟く。
「……起きるのは、もうすぐですよ」
風が枝葉を揺らし、
桃と鉄の匂いが混ざる。
刀がその香りを吸う。
(斬るのが仕事。
斬らせるのが私)
そう思いながら、
刃を撫で続ける。
名を持たぬこの大太刀は、
まだ試斬しか知らない。
血を吸っていない。
魂を刻んでいない。
それが、
“処女刀の危うさ”だ。
さくらは背から少しだけ引き、
月光を刃に落とした。
その光が脈打つ。
(……怖いですか?
それなら安心です)
刀に語る声は、
妙に優しい。
「恐れを知る刃は、
よい斬り口を持ちます」
風が止む。
その瞬間、
遠方の空気が動いた。
戦の方向性が
決まりつつあった。
太刀の柄に指を置き、
さくらは言う。
「――起きる準備だけしておきなさい」
刃は、
何も言わない。
だが、
冷えが鋭くなる。
戦の気配に共鳴し始めていた。
大太刀と太刀は、
人の道具ではない。
彼女の意志が形になった、
戦そのものの影。
さくらは刀を背に戻し、
静かに歩き出す。
その背の高さと刃の長さが、
夜の中でひとつの象徴になっていた。
(また花を咲かせるでしょう)
踏みしめた土が、
戦場の地図に変わるようだった。




