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殿の願いとは裏腹に、
天はあまりにもあっさりと、答えを変えてきた。
◆
産声は、
驚くほど力強かった。
さくらは、
汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら
それでも笑っていた。
「……殿」
抱かされた小さな身体を見ながら、
かすれた声で呟く。
「元気な、男の子です」
殿は、
言葉を失っていた。
これまで幾度となく
細く生まれ、細く消えていった命。
そのどれとも違う、
厚みと熱を持った泣き声。
(……本当に、届いたのか)
掌に乗せたとき、
その小ささが怖かった。
壊れるのではないか。
また奪われるのではないか。
殿は、
指先でそっと頬を撫でた。
子は、その指を掴んだ。
強く。
◆
成長は、あっという間だった。
お座りを覚えたと思えば、
すぐに立ち、
転びながら走り始める。
小さな竹刀を与えれば、
すぐに真似をする。
「こう、です」
さくらが手を添えると、
子は不思議そうに首をかしげたあと、
彼女が教えた通りではなく、
自分なりの構えをひょいと作ってみせた。
「……?」
「そこではありません、ここです」
さくらは笑いながら、
もう一度直そうとする。
だが、
殿の目には分かった。
(“ここ”でも斬れることを、
あやつはもう分かっておる)
剣を握ってきた者にしか分からぬ、
わずかな違い。
◆
体躯に似合わぬ剛力も、
すぐに明らかになった。
庭の石。
普通なら二人がかりで動かすものを、
まだ幼い腕でずるりと引きずってみせる。
「重く、ありません」
そう言って笑う顔が、
どこかさくらに似ていた。
さくらは、
半ば呆れ、半ば誇らしげにため息をつく。
「母としては、
あまり無茶をしてほしくはありませんね」
口ではそう言いながら、
目は嬉しそうだった。
◆
しかし殿を震わせたのは、
力以上に「目」だった。
ある日、
城下の市を歩いていたとき。
子は、
人だかりをじっと見ていた。
「なにを見ておる」
問いかけると、
小さな指が屋台ではなく、
その裏の細い路地を指した。
「ここ、
危ないです」
「どうしてそう思う」
「人がたくさんいて、
道がせまいのに」
「ここを通る人、
走ってます」
「落ちたら痛いです」
殿が覗き込むと、
確かに段差のある石が
半ば崩れかけていた。
誰も気づかぬような
ほんのわずかな綻び。
(……“本質”を見ておるのだな)
見えているものではなく、
そこに潜む危うさを。
◆
人の心に対しても、
子は妙に聡かった。
泣いている下働きの娘に
そっと手拭いを渡し、
怒鳴り散らしている下級武士の裾を引いて
一言だけ言う。
「大きな声、
こわいです」
それだけで、
男の肩から力が抜けた。
「……悪かったな」
彼は苦笑して頭を下げ、
娘もつられて笑った。
誰に教わるでもなく、
自然とそういう振る舞いができてしまう。
(誰かのようだ)
殿は、心の中で苦笑した。
かつて「猿」と呼ばれた頃、
己が無意識にやってきたこと。
人を笑わせ、
人の肩の力を抜き、
気づけば皆の中心に立っている生き方。
その「質」の一部を、
この子も持っていた。
◆
「……!」
天守から、
庭で遊ぶ姿を見下ろしたときだった。
木陰の下で
竹刀を振るう子。
その後ろに立つさくら。
さくらは、
腹の傷を庇うような動きで
ゆっくりと構えを見せている。
子は、それを真似ては壊し、
真似ては作り変えている。
剛力。
武の筋。
本質を掴む目。
人たらしの気配。
(わしと、さくらの)
(よいところばかりを持って生まれたような子だ)
そう思った瞬間、
殿は息を呑んだ。
「……もはや」
口の中で、
言葉が零れる。
「決めぬわけには、いかぬな」
◆
夜。
殿は、
灯りをひとつだけ残した部屋で
静かに座っていた。
机の上には、
短い書付が一枚。
そこには
ただ数行の文字。
――鬼娘・さくらが産みし子、
我が血を引くものと認む。
表向きには、
もっとまわりくどい文に変えられるだろう。
側室だの、
側女だの、
養子だの。
だが、
殿の中ではもう
それ以上の言葉は必要なかった。
(あの子を、“わしの子”だと言う)
(そのために、
あの子は生まれてきたのではあるまい)
(だが)
(わしの世を終わらせるにせよ、
続けるにせよ)
(あの子を、
ただ“鬼の子”として
野に放り出すわけにはいかぬ)
◆
さくらの顔が浮かぶ。
大太刀を振るう背中。
陣中で見せた笑み。
腹を撫でながら
こっそりニヤついていた横顔。
(あやつは、
わしが何を決めようとも)
(ただ、
その決定に従うのだろう)
(それが、
あやつの忠と、
わしへの情だ)
ならば――
決めるのは自分だ。
誰かに押し付けることはできない。
◆
殿は、
筆を取った。
「……天下人としては」
苦笑が漏れる。
「愚かな選びかもしれぬな」
血の争い。
後継の火種。
己が死後の乱れ。
それらが目に見えていながら、
それでも筆は止まらなかった。
「だが、
一人の男としてなら」
墨が、
紙の上を滑る。
その一行を書き終えた瞬間。
殿はようやく、
自分が何年も固く握りしめていたものを
少しだけ手放せた気がした。
天下人としての打算ではなく、
ただ一人の父としての言葉を。
◆
外は静かだった。
新しい城はまだ未完成だが、
世はすでに一つに近い。
その中心で──
殿はようやく決断した。
鬼娘が産みし子を、
天下人が己の子と認めること。
それが、この世に
新しい「火種」を置くことだと知りながらも、
それ以外の選び方を、
もはや自分は持っていないと悟っていた。




