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殿の願いとは裏腹に、

天はあまりにもあっさりと、答えを変えてきた。



産声は、

驚くほど力強かった。


さくらは、

汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら

それでも笑っていた。


「……殿」


抱かされた小さな身体を見ながら、

かすれた声で呟く。


「元気な、男の子です」


殿は、

言葉を失っていた。


これまで幾度となく

細く生まれ、細く消えていった命。


そのどれとも違う、

厚みと熱を持った泣き声。


(……本当に、届いたのか)


掌に乗せたとき、

その小ささが怖かった。


壊れるのではないか。

また奪われるのではないか。


殿は、

指先でそっと頬を撫でた。


子は、その指を掴んだ。


強く。



成長は、あっという間だった。


お座りを覚えたと思えば、

すぐに立ち、

転びながら走り始める。


小さな竹刀を与えれば、

すぐに真似をする。


「こう、です」


さくらが手を添えると、

子は不思議そうに首をかしげたあと、


彼女が教えた通りではなく、

自分なりの構えをひょいと作ってみせた。


「……?」


「そこではありません、ここです」


さくらは笑いながら、

もう一度直そうとする。


だが、

殿の目には分かった。


(“ここ”でも斬れることを、

 あやつはもう分かっておる)


剣を握ってきた者にしか分からぬ、

わずかな違い。



体躯に似合わぬ剛力も、

すぐに明らかになった。


庭の石。

普通なら二人がかりで動かすものを、

まだ幼い腕でずるりと引きずってみせる。


「重く、ありません」


そう言って笑う顔が、

どこかさくらに似ていた。


さくらは、

半ば呆れ、半ば誇らしげにため息をつく。


「母としては、

 あまり無茶をしてほしくはありませんね」


口ではそう言いながら、

目は嬉しそうだった。



しかし殿を震わせたのは、

力以上に「目」だった。


ある日、

城下の市を歩いていたとき。


子は、

人だかりをじっと見ていた。


「なにを見ておる」


問いかけると、

小さな指が屋台ではなく、

その裏の細い路地を指した。


「ここ、

 危ないです」


「どうしてそう思う」


「人がたくさんいて、

 道がせまいのに」


「ここを通る人、

 走ってます」


「落ちたら痛いです」


殿が覗き込むと、

確かに段差のある石が

半ば崩れかけていた。


誰も気づかぬような

ほんのわずかな綻び。


(……“本質”を見ておるのだな)


見えているものではなく、

そこに潜む危うさを。



人の心に対しても、

子は妙に聡かった。


泣いている下働きの娘に

そっと手拭いを渡し、


怒鳴り散らしている下級武士の裾を引いて

一言だけ言う。


「大きな声、

 こわいです」


それだけで、

男の肩から力が抜けた。


「……悪かったな」


彼は苦笑して頭を下げ、

娘もつられて笑った。


誰に教わるでもなく、

自然とそういう振る舞いができてしまう。


(誰かのようだ)


殿は、心の中で苦笑した。


かつて「猿」と呼ばれた頃、

己が無意識にやってきたこと。


人を笑わせ、

人の肩の力を抜き、

気づけば皆の中心に立っている生き方。


その「質」の一部を、

この子も持っていた。



「……!」


天守から、

庭で遊ぶ姿を見下ろしたときだった。


木陰の下で

竹刀を振るう子。


その後ろに立つさくら。


さくらは、

腹の傷を庇うような動きで

ゆっくりと構えを見せている。


子は、それを真似ては壊し、

真似ては作り変えている。


剛力。

武の筋。

本質を掴む目。

人たらしの気配。


(わしと、さくらの)


(よいところばかりを持って生まれたような子だ)


そう思った瞬間、

殿は息を呑んだ。


「……もはや」


口の中で、

言葉が零れる。


「決めぬわけには、いかぬな」



夜。


殿は、

灯りをひとつだけ残した部屋で

静かに座っていた。


机の上には、

短い書付が一枚。


そこには

ただ数行の文字。


 ――鬼娘・さくらが産みし子、

   我が血を引くものと認む。


表向きには、

もっとまわりくどい文に変えられるだろう。


側室だの、

側女だの、

養子だの。


だが、

殿の中ではもう

それ以上の言葉は必要なかった。


(あの子を、“わしの子”だと言う)


(そのために、

 あの子は生まれてきたのではあるまい)


(だが)


(わしの世を終わらせるにせよ、

 続けるにせよ)


(あの子を、

 ただ“鬼の子”として

 野に放り出すわけにはいかぬ)



さくらの顔が浮かぶ。


大太刀を振るう背中。

陣中で見せた笑み。

腹を撫でながら

こっそりニヤついていた横顔。


(あやつは、

 わしが何を決めようとも)


(ただ、

 その決定に従うのだろう)


(それが、

 あやつの忠と、

 わしへの情だ)


ならば――

決めるのは自分だ。


誰かに押し付けることはできない。



殿は、

筆を取った。


「……天下人としては」


苦笑が漏れる。


「愚かな選びかもしれぬな」


血の争い。

後継の火種。

己が死後の乱れ。


それらが目に見えていながら、

それでも筆は止まらなかった。


「だが、

 一人の男としてなら」


墨が、

紙の上を滑る。


その一行を書き終えた瞬間。


殿はようやく、

自分が何年も固く握りしめていたものを

少しだけ手放せた気がした。


天下人としての打算ではなく、

ただ一人の父としての言葉を。



外は静かだった。


新しい城はまだ未完成だが、

世はすでに一つに近い。


その中心で──

殿はようやく決断した。


鬼娘が産みし子を、

天下人が己の子と認めること。


それが、この世に

新しい「火種」を置くことだと知りながらも、


それ以外の選び方を、

もはや自分は持っていないと悟っていた。

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