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城は、ゆっくりと
空を食べていった。
◆
かつて総本山があった土地。
焼け、奪われ、
一度はただの土と石に戻された場所に、
殿は、いまだかつてない規模の
巨大な城を築かせた。
平野に根を張り、
海と都と東北とを一つの線で結ぶような城。
石垣が積まれ、
天主台がせり上がっていくたびに、
周囲の町も、
自然と膨らんでいった。
職人たちの宿。
材木を下ろす河岸。
商人の店。
茶屋。
寺。
戦の陣ではなく、
殿の「世そのもの」が
そこに形を持ち始めていた。
◆
さくらの腹は、
その城と同じ速さで膨らんでいった。
最初は、自分でも
気づかぬほどの変化だった。
いつもの鎧が、
ほんの少しだけきつくなる。
帯を締めたときに、
指が一本分だけ足りなくなる。
(……戦の疲れが
溜まっているだけかと思いましたが)
医者に「おめでとうございます」と言われたとき、
さくらは、
ほんの一瞬だけ
鬼娘らしからぬ声を出しそうになった。
◆
それからの日々、
さくらの歩き方も
戦い方も変わった。
前線に立つことは減り、
兵の稽古を見ることが増えた。
大太刀を振るう代わりに、
木刀を握る腕を導く。
「そこです。
腰を落として。
刃を振り下ろすのではなく、通すのです」
桃の匂いは相変わらず強かったが、
その中に
どこか柔らかい甘さが混じり始めていた。
◆
周りの人間は、
それについて誰も詳しく聞くことはできなかった。
「……さくら殿、
最近お顔の色がよろしいですね」
そう言った若い武士は、
さくらにニコリと返されただけで
それ以上は何も言えなくなった。
「ええ。
良いことがありましたので」
それだけ。
誰も、
「誰の子ですか」と
口に出せる者はいない。
殿の世の中で、
殿の一番長く戦場に立ってきた刃。
その腹に宿るものが
何であるかくらいは、
誰もが、
聞かずとも察していた。
◆
ただひとつ、
皆が共通して目にしたものがある。
さくらがニヤけている姿だった。
城下を歩きながら。
兵の稽古を眺めながら。
夕暮れの天主台の影を見上げながら。
ふと気を抜いたように、
お腹を撫でて、
ふわりと笑う。
「……まただ」
「最近、
鬼娘様がよく笑っておる」
「天下が取れたからだろうさ」
「それだけかのう」
囁きは、
いつもそこまでで止まった。
◆
さくら自身は、
自分の頬がゆるんでいることを
よく分かっていた。
(いけませんね)
(戦場では決して
見せなかった顔ですのに)
そう思いながらも、
手は自然と腹へ伸びる。
まだ生まれてもいない我が子に、
何を語りかければいいのか分からない。
だが、
それでも時折心の中で呟く。
(あなたが見る頃には)
(この城も、
すっかり出来上がっているのでしょうね)
(殿の世も、
もう少し静かになっていると
いいのですが)
◆
殿は、新城の図を眺めながら
時折、
遠くに立つさくらの姿を目で追っていた。
鎧を脱ぎ、
軽い装いで城下を歩く鬼娘。
背に大太刀はない。
代わりに、
小さく膨らんだ腹を庇うように歩いている。
(刃は、
いつか鞘に戻さねばならぬ)
(戻した先に、
こうして次の命があるのなら)
「……是非もなし、か」
昔別の場所で漏らした言葉を、
殿はもう一度
別の意味で心の中に転がした。
◆
やがて、
天主閣の骨組みが
空を切り取るように伸びた頃。
城下の者たちは、
もはやそれを
戦のための城とは思っていなかった。
殿の世を象る心臓。
その真ん中。
そこに住まう者たちのあいだで、
鬼娘の腹の噂も
静かに広がっていった。
誰も声高には語らない。
ただ、
井戸端や市の隅で
小さく囁くだけだ。
「いつか、
あの子が大きくなったら」
「鬼の子か、
殿の子か」
「どちらであっても、
この世のどこかで
きっとまた“刃”を持つのだろうな」
◆
新しい城が
空と地面をつなぎ終えるころ。
さくらのお腹も、
もう隠しようのないほどに大きくなっていた。
彼女は相変わらず、
ときどきニヤけていた。
大太刀の柄ではなく、
自らの腹を撫でながら。
これまで戦のためにしか使われなかった
その手が、
今は、
まだ名も知らぬ小さな命のためにも
そっと動くようになっていた。
新しい城の骨組みが、
空を切り取るように伸びていた。
◆
殿は、天主台になるはずの高みに立ち、
下界を見下ろしていた。
石垣。
城下の町。
材木を運ぶ人足たち。
その中に、
ゆっくりと歩くさくらの姿があった。
腹に手を添え、
ときおり何かを確かめるように撫でる。
そのたび、
横顔に小さな笑みが灯る。
(……あの顔は、
戦場では一度も見せなんだな)
胸の奥が、
少しだけ痛む。
◆
殿は、自分の噂を知っていた。
――子ができぬ殿。
――できても、すぐ死ぬ殿。
妻とのあいだにも。
妹君とのあいだにも。
新しく娶った、妹君の娘とのあいだにも。
極稀に生まれた赤子は、
まるで神仏が「戻せ」とでも言わんばかりに
あっけなく命を手放した。
「これは天の御心にて」
そう言う坊主を、
殿は殴り飛ばしたこともある。
(御心なぞ知るか。
わしが欲しいのは、
ただ一人、
長く生きてくれる子だけだ)
◆
だからこそ──
さくらの腹を見るたびに
胸中は複雑になった。
(あの子を、
わしの子だと言うべきか)
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
言うべきだ。
言わぬべきだ。
どちらにも、
いくつもの理があった。
◆
言えば――
天下人の子となる。
守られる。
城も、兵も、法も、
その命を囲うように動くだろう。
さくらの身も、
これまで以上に
固い殻で守られる。
(あやつのことだ。
窮屈がるだろうがな)
それでも、
「鬼娘の子」が
世に放り出されることはない。
だが同時に、
天下人の子は「標的」にもなる。
かつて自分が牙を剥いた相手たち。
その残り火。
この世に居場所をなくした武士ども。
(わしの世を恨む目は、
必ずどこかに残る)
その目が、
狙う先を得ることになる。
◆
言わねば――
ただの「さくらの子」でいられる。
鬼娘の子。
武に生きた女が、
たまたま授かった命。
城下のどこかで、
それなりに守られて育つかもしれない。
戦から少し離れた場所で、
「天下人の血」ではなく
「一人の女の子」としての一生を
送れるかもしれない。
(それはそれで、
幸せかもしれぬ)
しかしそのとき、
殿自身の胸の内はどうなるのか。
(わしは、
また“子のいない天下人”と
呼ばれ続けるのだろう)
◆
殿には、
小さな疑念も一瞬だけ過った。
(……本当に、
わしの子か?)
だが、その思いは
すぐに自分で打ち消した。
さくらの性格も、
士道も、
これまでの生き方も
誰よりよく知っている。
(あやつが、
わし以外の男の子を宿すようなら)
(それはとっくに
自分で腹を切っとる)
そういう女だ。
疑うこと自体が、
さくらへの侮辱だった。
殿は、そのことを
誰より分かっていた。
◆
(では、どうする)
天主台の風が、
羽織の裾を揺らす。
遠くで、
木槌の音と、
子どもの笑い声が混ざっていた。
(わしの子だと言えば、
あの子は“世”を背負わされる)
(言わねば、
あの子の命を守れるやもしれん)
(……だが)
(あの子が無事に生まれるのなら)
殿は、
胸の奥でひっそりと思った。
(わしの子であろうがなかろうが、
もう構わぬのかもしれん)
(誰の子であってもよい。
ただ、生き延びてくれれば)
その考えは、
天下人としては
あまりにも甘く、弱い。
だが一人の男としては、
あまりにも正直だった。
◆
(とはいえ、世はそこまで
綺麗には済まぬ)
殿は、
指先で欄干を軽く叩いた。
自分の死後。
世の移り変わり。
権力の奪い合い。
「天下人の血」が
どれほどの火種になるかを、
これまで嫌というほど見てきた。
(今ここで“わしの子”と言い切れば、
わしが死んだあと──)
(あの子は、
きっと争いの真ん中に立たされる)
(鬼娘の子である前に、
天下人の子として)
それを望むのか。
望まぬのか。
答えは、
まだ出なかった。
◆
「殿」
背後から、
控えの者が声をかけた。
振り返ると、
遠く下の方で
さくらがこちらを見上げていた。
腹に手を添えたまま、
目を細めている。
殿は、
ほんのわずか手を上げて応えた。
風が、
桃の匂いを運んでくる錯覚がした。
(……あの子が生まれるまでは)
殿は、
ひとまず答えを先送りにすることにした。
(わしの胸の中でだけ、
“わしの子”と呼んでおこう)
声には出さない。
誰にも言わない。
「天下人の子」としてではなく、
ただ一人の男が
ひそかに思うだけの名として。
◆
決めねばならぬときは、
いずれ来る。
城が完成するときか。
あの子が生まれるときか。
あるいは、そのずっと先か。
(そのときに、
もう一度考えればよい)
殿は、
自分にそう言い聞かせた。
今はただ――
あの腹の中の命が、
これまでの子らのように
あっけなく消えることなく、
無事にこの世の空気を
一度でも吸ってくれることを。
天下人にしては
あまりにも小さな願いを、
胸の奥にそっと隠した。




