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城は、ゆっくりと

空を食べていった。



かつて総本山があった土地。

焼け、奪われ、

一度はただの土と石に戻された場所に、


殿は、いまだかつてない規模の

巨大な城を築かせた。


平野に根を張り、

海と都と東北とを一つの線で結ぶような城。


石垣が積まれ、

天主台がせり上がっていくたびに、


周囲の町も、

自然と膨らんでいった。


職人たちの宿。

材木を下ろす河岸。

商人の店。

茶屋。

寺。


戦の陣ではなく、

殿の「世そのもの」が

そこに形を持ち始めていた。



さくらの腹は、

その城と同じ速さで膨らんでいった。


最初は、自分でも

気づかぬほどの変化だった。


いつもの鎧が、

ほんの少しだけきつくなる。


帯を締めたときに、

指が一本分だけ足りなくなる。


(……戦の疲れが

 溜まっているだけかと思いましたが)


医者に「おめでとうございます」と言われたとき、

さくらは、

ほんの一瞬だけ

鬼娘らしからぬ声を出しそうになった。



それからの日々、

さくらの歩き方も

戦い方も変わった。


前線に立つことは減り、

兵の稽古を見ることが増えた。


大太刀を振るう代わりに、

木刀を握る腕を導く。


「そこです。

 腰を落として。

 刃を振り下ろすのではなく、通すのです」


桃の匂いは相変わらず強かったが、

その中に

どこか柔らかい甘さが混じり始めていた。



周りの人間は、

それについて誰も詳しく聞くことはできなかった。


「……さくら殿、

 最近お顔の色がよろしいですね」


そう言った若い武士は、

さくらにニコリと返されただけで

それ以上は何も言えなくなった。


「ええ。

 良いことがありましたので」


それだけ。


誰も、

「誰の子ですか」と

口に出せる者はいない。


殿の世の中で、

殿の一番長く戦場に立ってきた刃。


その腹に宿るものが

何であるかくらいは、


誰もが、

聞かずとも察していた。



ただひとつ、

皆が共通して目にしたものがある。


さくらがニヤけている姿だった。


城下を歩きながら。

兵の稽古を眺めながら。

夕暮れの天主台の影を見上げながら。


ふと気を抜いたように、

お腹を撫でて、

ふわりと笑う。


「……まただ」


「最近、

 鬼娘様がよく笑っておる」


「天下が取れたからだろうさ」


「それだけかのう」


囁きは、

いつもそこまでで止まった。



さくら自身は、

自分の頬がゆるんでいることを

よく分かっていた。


(いけませんね)


(戦場では決して

 見せなかった顔ですのに)


そう思いながらも、

手は自然と腹へ伸びる。


まだ生まれてもいない我が子に、

何を語りかければいいのか分からない。


だが、

それでも時折心の中で呟く。


(あなたが見る頃には)


(この城も、

 すっかり出来上がっているのでしょうね)


(殿の世も、

 もう少し静かになっていると

 いいのですが)



殿は、新城の図を眺めながら

時折、

遠くに立つさくらの姿を目で追っていた。


鎧を脱ぎ、

軽い装いで城下を歩く鬼娘。


背に大太刀はない。

代わりに、

小さく膨らんだ腹を庇うように歩いている。


(刃は、

 いつか鞘に戻さねばならぬ)


(戻した先に、

 こうして次の命があるのなら)


「……是非もなし、か」


昔別の場所で漏らした言葉を、

殿はもう一度

別の意味で心の中に転がした。



やがて、

天主閣の骨組みが

空を切り取るように伸びた頃。


城下の者たちは、

もはやそれを

戦のための城とは思っていなかった。


殿の世を象る心臓。

その真ん中。


そこに住まう者たちのあいだで、

鬼娘の腹の噂も

静かに広がっていった。


誰も声高には語らない。

ただ、

井戸端や市の隅で

小さく囁くだけだ。


「いつか、

 あの子が大きくなったら」


「鬼の子か、

 殿の子か」


「どちらであっても、

 この世のどこかで

 きっとまた“刃”を持つのだろうな」



新しい城が

空と地面をつなぎ終えるころ。


さくらのお腹も、

もう隠しようのないほどに大きくなっていた。


彼女は相変わらず、

ときどきニヤけていた。


大太刀の柄ではなく、

自らの腹を撫でながら。


これまで戦のためにしか使われなかった

その手が、


今は、

まだ名も知らぬ小さな命のためにも

そっと動くようになっていた。


新しい城の骨組みが、

空を切り取るように伸びていた。



殿は、天主台になるはずの高みに立ち、

下界を見下ろしていた。


石垣。

城下の町。

材木を運ぶ人足たち。


その中に、

ゆっくりと歩くさくらの姿があった。


腹に手を添え、

ときおり何かを確かめるように撫でる。


そのたび、

横顔に小さな笑みが灯る。


(……あの顔は、

 戦場では一度も見せなんだな)


胸の奥が、

少しだけ痛む。



殿は、自分の噂を知っていた。


――子ができぬ殿。

――できても、すぐ死ぬ殿。


妻とのあいだにも。

妹君とのあいだにも。

新しく娶った、妹君の娘とのあいだにも。


極稀に生まれた赤子は、

まるで神仏が「戻せ」とでも言わんばかりに

あっけなく命を手放した。


「これは天の御心にて」


そう言う坊主を、

殿は殴り飛ばしたこともある。


(御心なぞ知るか。

 わしが欲しいのは、

 ただ一人、

 長く生きてくれる子だけだ)



だからこそ──

さくらの腹を見るたびに

胸中は複雑になった。


(あの子を、

 わしの子だと言うべきか)


最初に浮かんだのは、その言葉だった。


言うべきだ。

言わぬべきだ。


どちらにも、

いくつもの理があった。



言えば――

天下人の子となる。


守られる。

城も、兵も、法も、

その命を囲うように動くだろう。


さくらの身も、

これまで以上に

固い殻で守られる。


(あやつのことだ。

 窮屈がるだろうがな)


それでも、

「鬼娘の子」が

世に放り出されることはない。


だが同時に、

天下人の子は「標的」にもなる。


かつて自分が牙を剥いた相手たち。

その残り火。

この世に居場所をなくした武士ども。


(わしの世を恨む目は、

 必ずどこかに残る)


その目が、

狙う先を得ることになる。



言わねば――

ただの「さくらの子」でいられる。


鬼娘の子。

武に生きた女が、

たまたま授かった命。


城下のどこかで、

それなりに守られて育つかもしれない。


戦から少し離れた場所で、

「天下人の血」ではなく

「一人の女の子」としての一生を

送れるかもしれない。


(それはそれで、

 幸せかもしれぬ)


しかしそのとき、

殿自身の胸の内はどうなるのか。


(わしは、

 また“子のいない天下人”と

 呼ばれ続けるのだろう)



殿には、

小さな疑念も一瞬だけ過った。


(……本当に、

 わしの子か?)


だが、その思いは

すぐに自分で打ち消した。


さくらの性格も、

士道も、

これまでの生き方も

誰よりよく知っている。


(あやつが、

 わし以外の男の子を宿すようなら)


(それはとっくに

 自分で腹を切っとる)


そういう女だ。


疑うこと自体が、

さくらへの侮辱だった。


殿は、そのことを

誰より分かっていた。



(では、どうする)


天主台の風が、

羽織の裾を揺らす。


遠くで、

木槌の音と、

子どもの笑い声が混ざっていた。


(わしの子だと言えば、

 あの子は“世”を背負わされる)


(言わねば、

 あの子の命を守れるやもしれん)


(……だが)


(あの子が無事に生まれるのなら)


殿は、

胸の奥でひっそりと思った。


(わしの子であろうがなかろうが、

 もう構わぬのかもしれん)


(誰の子であってもよい。

 ただ、生き延びてくれれば)


その考えは、

天下人としては

あまりにも甘く、弱い。


だが一人の男としては、

あまりにも正直だった。



(とはいえ、世はそこまで

 綺麗には済まぬ)


殿は、

指先で欄干を軽く叩いた。


自分の死後。

世の移り変わり。

権力の奪い合い。


「天下人の血」が

どれほどの火種になるかを、

これまで嫌というほど見てきた。


(今ここで“わしの子”と言い切れば、

 わしが死んだあと──)


(あの子は、

 きっと争いの真ん中に立たされる)


(鬼娘の子である前に、

 天下人の子として)


それを望むのか。

望まぬのか。


答えは、

まだ出なかった。



「殿」


背後から、

控えの者が声をかけた。


振り返ると、

遠く下の方で

さくらがこちらを見上げていた。


腹に手を添えたまま、

目を細めている。


殿は、

ほんのわずか手を上げて応えた。


風が、

桃の匂いを運んでくる錯覚がした。


(……あの子が生まれるまでは)


殿は、

ひとまず答えを先送りにすることにした。


(わしの胸の中でだけ、

 “わしの子”と呼んでおこう)


声には出さない。

誰にも言わない。


「天下人の子」としてではなく、

ただ一人の男が

ひそかに思うだけの名として。



決めねばならぬときは、

いずれ来る。


城が完成するときか。

あの子が生まれるときか。

あるいは、そのずっと先か。


(そのときに、

 もう一度考えればよい)


殿は、

自分にそう言い聞かせた。


今はただ――

あの腹の中の命が、

これまでの子らのように

あっけなく消えることなく、


無事にこの世の空気を

一度でも吸ってくれることを。


天下人にしては

あまりにも小さな願いを、

胸の奥にそっと隠した。

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