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それから、

さくらはよくニヤけるようになった。



陣中の朝。


いつものように鎧をつけ、

髪をまとめ、

大太刀を背負う。


やることは変わらないはずなのに、

顔つきだけがどこか違って見える。


「……ふふ」


誰もいないはずの幕の中で、

さくらは自分で自分の頬をつついた。


(いけませんね、わたくし)


(これでは、

 浮かれた若い娘そのものではありませんか)


そう思いながらも、

口元のゆるみはどうしても戻らなかった。


あの夜のことを思い出すたび、

胸の奥のどこかが

じんわりと温かくなる。


(いいものですね)


(これまで、剣に生きてきましたが)


(あの夜は……良かった)


刃を振るうでもなく。

誰かを切り伏せるでもなく。


ただ、自分という一人の女の

どこか奥まった場所に

静かに灯をともされたような夜。



ある昼下がり。


陣の端で、

さくらはふと立ち止まった。


何かを確かめるように、

そっとお腹のあたりに手を添えてみる。


まだ、

何も変わってはいない。


甲冑の下の布越しに触れても、

そこにあるのは

いつも通りの硬い筋肉と、

わずかな温もりだけ。


それでも、

手のひらを当てていると

不思議と心が落ち着いた。


(……もしも)


そこまで考えて、

さくらは自分で自分の思考を止める。


(何をそんなに、

 先走っているのでしょう)


(まだ、何も決まっていないというのに)


そう言い聞かせながらも

お腹を擦る手はそのままだ。


気づけば、

口元がまたゆるんでいる。


「ふふ……」



その様子を、

何度か兵たちが目撃した。


「なあ」


「見たか、さっきの鬼娘様」


「おう。なんか、

 ニヤニヤして腹さすってたな」


「腹、どこか悪いんじゃなかろうな?」


「いや、あの顔は……

 腹が痛い顔じゃなかったぞ」


遠くからこそこそと覗いていた若い兵は、

耳まで赤くしていた。


「鬼娘様にも、

 ああいう顔をされることがあるんだなぁ……」


「お前、何想像してんだ」


「な、何も!」


慌てて否定する声に、

周囲の連中が苦笑する。



噂は、

声にはならない形で

ゆっくりと広がっていった。


「最近、

 鬼娘様がよく機嫌がいい」


「前よりも、

 誰かの話を聞くときの目が柔らかい」


「夜中、ひとりで空を見て笑ってたのを見たぞ」


どれも、

小さな変化だ。


刃の冴えは、

何一つ鈍っていない。


むしろ、

戦場での足さばきや

刃の止めどころは、前よりも冴えてさえいる。


ただ――

戦が一段落したあとに

ほんの少しだけ遠くを見るような顔をするようになった。


その視線の先には

何があるのか、

誰も知らない。



(もしも)


さくらは夜、

また幕の中で手をお腹に添えた。


(もしも、

 本当に授かることがあれば)


(この刃は、

 どこまで振るうべきなのでしょうね)


答えはまだない。


鬼として戦場に立つ自分と、

女として何かを宿したい自分と。


その二つが、

まだ静かに並んで座っているだけだ。


「……殿」


小さく名を呼んでみる。


あの夜と同じように、

耳まで熱くなるのを自覚しながら。


答えはない。

あるはずもない。


それでも――

その名を口の中で転がすたびに、


さくらの口元には

どうしようもなく小さな笑みが浮かんでしまうのだった。


包囲の年月のあいだに、

小さな「違和感」は何度かあった。



軍議。


殿のまわりに、

重臣たちがずらりと並ぶ。


策士。

東北の使者。

かつて西で共に戦った武将たち。


その中に、いつも通り

さくらも座していた。


その席で――

ふと、空気が変わるときがあった。


桃のような、

甘く強い女の匂い。


鼻をかすめるほどの僅かなもの。

しかし、一度でも戦場で嗅いだことのある者には

忘れようもない匂い。


(……ん?)


誰かが、

一瞬だけ眉を寄せる。


だが、

そこにはいつも通りさくらがいる。


鎧は着ていても、

匂いは隠れない女。


(……さくら殿のせいだろう)


(軍議の場だからといって、

 匂いまで消えるわけではない)


そう思い直して、

誰も口には出さなかった。


まさか――

その匂いの、ごく一部だけが


殿の衣に

薄く移っているのだとは

思いもしなかった。



さくら自身は、

軍議のあいだずっと


(……いつもより、殿の側が

 桃くさいですね)


と、心の中でだけ

そっと赤面していた。


自分のせいだと分かっていたから、

余計に何も言えない。


(戦の話をしている場ですよ、わたくし)


(顔を赤くしていてはいけません)


そう自分に言い聞かせながらも、

時折、胸の奥がくすぐったくなる。



そんな日々の中で――

その時は、突然訪れた。


巨城から、

白旗を掲げた使者が出たのだ。


遠目にも分かる、

きちんとした礼装。


城門が開き、

わずかな供回りを連れた使者が

殿の陣へ馬を進める。


陣中はざわめいた。


「……ついに、か」


「また使者を追い返す戦ではないのか?」


「いや、あの歩き方は…」


侮りもなく、

虚勢もなく、

ただ覚悟だけを帯びた足取り。


それを見て、

経験のある者たちは

すぐに察した。


(降伏を――飲む気だ)



本陣前。


殿は、

簡素な陣羽織で座していた。


さくらは、一歩後ろに控える。

桃の匂いは、

今日はいつもよりやや薄かった。


使者は馬を降り、

静かに膝をついた。


「関東一円と、

 東北の諸国の盟主たるつもりでおった愚か者が」


「ついに、

 天下の流れを悟りました」


言葉は柔らかいが、

声の芯は折れていない。


「この巨城は、

 殿の御意のままに」


「ただ、

 城下の民の命ばかりはお救い下されたい」



殿は、

しばらく何も言わなかった。


巨城。

包囲。

市の明かり。

東北の旗。


これまで歩いてきた道のすべてが

静かに目の前に収束している瞬間だった。


やがて、

殿は短く頷いた。


「わしは、城が欲しいのではない」


「この世をひとつにしたいだけだ」


使者が頭を下げる。


「民の命は、

 殿の“世”の中で

 生かされると受け取ってよろしいか」


「そういうことだ」


殿の声は、淡々としていた。


勝ち誇る色も、

責め立てる色もない。


ただ、

長い戦の終わりを受け止める声。



その場に立ち会っていたさくらは、

静かに息を吐いた。


(終わりましたね)


西の海。

北の山。

都と寺。

魔王と呼ばれた男の世。


そのすべてを経て、


(残っていた最後の“外側”が

 とうとう内側に入る)


巨城の石垣は、

明日も変わらずそこにあるだろう。


けれど、その意味だけが

今日、この瞬間に変わった。



陣に戻る途中、

さくらは自分の腹に

そっと手を添えた。


まだ、

何も確かなものはない。


それでも――


(この世が一つに近づいたのなら)


(わたくしの刃も、

 どこかで静かに

 置かれる日が来るのでしょうか)


そんなことを思いながら、

うっかり口元がまた緩んでしまう。


通りすがった若い兵が

こっそり囁いた。


「……また腹さすって笑ってるぞ」


「鬼娘様、

 最近ほんとに機嫌がいいな」


「天下が近いからだろうさ」


彼らは、

それ以上深くは考えなかった。



その夜。


包囲陣は、

久しぶりに「戦の外」のような

静けさと安堵に満ちていた。


笑い声。

泣き声。

空を見上げる者。


さくらは少し離れた場所で、

巨城の影をじっと見つめていた。


(殿の世は、

 これでほぼ満ちました)


(では――)


(この先のわたくしの人生は、

 どこへ向かうのでしょうね)


答えはまだ、

誰も知らない。


ただ、

桃の匂いだけが


今までで一番柔らかく、

あたたかく夜の空気に溶けていった。

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