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それから、
さくらはよくニヤけるようになった。
◆
陣中の朝。
いつものように鎧をつけ、
髪をまとめ、
大太刀を背負う。
やることは変わらないはずなのに、
顔つきだけがどこか違って見える。
「……ふふ」
誰もいないはずの幕の中で、
さくらは自分で自分の頬をつついた。
(いけませんね、わたくし)
(これでは、
浮かれた若い娘そのものではありませんか)
そう思いながらも、
口元のゆるみはどうしても戻らなかった。
あの夜のことを思い出すたび、
胸の奥のどこかが
じんわりと温かくなる。
(いいものですね)
(これまで、剣に生きてきましたが)
(あの夜は……良かった)
刃を振るうでもなく。
誰かを切り伏せるでもなく。
ただ、自分という一人の女の
どこか奥まった場所に
静かに灯をともされたような夜。
◆
ある昼下がり。
陣の端で、
さくらはふと立ち止まった。
何かを確かめるように、
そっとお腹のあたりに手を添えてみる。
まだ、
何も変わってはいない。
甲冑の下の布越しに触れても、
そこにあるのは
いつも通りの硬い筋肉と、
わずかな温もりだけ。
それでも、
手のひらを当てていると
不思議と心が落ち着いた。
(……もしも)
そこまで考えて、
さくらは自分で自分の思考を止める。
(何をそんなに、
先走っているのでしょう)
(まだ、何も決まっていないというのに)
そう言い聞かせながらも
お腹を擦る手はそのままだ。
気づけば、
口元がまたゆるんでいる。
「ふふ……」
◆
その様子を、
何度か兵たちが目撃した。
「なあ」
「見たか、さっきの鬼娘様」
「おう。なんか、
ニヤニヤして腹さすってたな」
「腹、どこか悪いんじゃなかろうな?」
「いや、あの顔は……
腹が痛い顔じゃなかったぞ」
遠くからこそこそと覗いていた若い兵は、
耳まで赤くしていた。
「鬼娘様にも、
ああいう顔をされることがあるんだなぁ……」
「お前、何想像してんだ」
「な、何も!」
慌てて否定する声に、
周囲の連中が苦笑する。
◆
噂は、
声にはならない形で
ゆっくりと広がっていった。
「最近、
鬼娘様がよく機嫌がいい」
「前よりも、
誰かの話を聞くときの目が柔らかい」
「夜中、ひとりで空を見て笑ってたのを見たぞ」
どれも、
小さな変化だ。
刃の冴えは、
何一つ鈍っていない。
むしろ、
戦場での足さばきや
刃の止めどころは、前よりも冴えてさえいる。
ただ――
戦が一段落したあとに
ほんの少しだけ遠くを見るような顔をするようになった。
その視線の先には
何があるのか、
誰も知らない。
◆
(もしも)
さくらは夜、
また幕の中で手をお腹に添えた。
(もしも、
本当に授かることがあれば)
(この刃は、
どこまで振るうべきなのでしょうね)
答えはまだない。
鬼として戦場に立つ自分と、
女として何かを宿したい自分と。
その二つが、
まだ静かに並んで座っているだけだ。
「……殿」
小さく名を呼んでみる。
あの夜と同じように、
耳まで熱くなるのを自覚しながら。
答えはない。
あるはずもない。
それでも――
その名を口の中で転がすたびに、
さくらの口元には
どうしようもなく小さな笑みが浮かんでしまうのだった。
包囲の年月のあいだに、
小さな「違和感」は何度かあった。
◆
軍議。
殿のまわりに、
重臣たちがずらりと並ぶ。
策士。
東北の使者。
かつて西で共に戦った武将たち。
その中に、いつも通り
さくらも座していた。
その席で――
ふと、空気が変わるときがあった。
桃のような、
甘く強い女の匂い。
鼻をかすめるほどの僅かなもの。
しかし、一度でも戦場で嗅いだことのある者には
忘れようもない匂い。
(……ん?)
誰かが、
一瞬だけ眉を寄せる。
だが、
そこにはいつも通りさくらがいる。
鎧は着ていても、
匂いは隠れない女。
(……さくら殿のせいだろう)
(軍議の場だからといって、
匂いまで消えるわけではない)
そう思い直して、
誰も口には出さなかった。
まさか――
その匂いの、ごく一部だけが
殿の衣に
薄く移っているのだとは
思いもしなかった。
◆
さくら自身は、
軍議のあいだずっと
(……いつもより、殿の側が
桃くさいですね)
と、心の中でだけ
そっと赤面していた。
自分のせいだと分かっていたから、
余計に何も言えない。
(戦の話をしている場ですよ、わたくし)
(顔を赤くしていてはいけません)
そう自分に言い聞かせながらも、
時折、胸の奥がくすぐったくなる。
◆
そんな日々の中で――
その時は、突然訪れた。
巨城から、
白旗を掲げた使者が出たのだ。
遠目にも分かる、
きちんとした礼装。
城門が開き、
わずかな供回りを連れた使者が
殿の陣へ馬を進める。
陣中はざわめいた。
「……ついに、か」
「また使者を追い返す戦ではないのか?」
「いや、あの歩き方は…」
侮りもなく、
虚勢もなく、
ただ覚悟だけを帯びた足取り。
それを見て、
経験のある者たちは
すぐに察した。
(降伏を――飲む気だ)
◆
本陣前。
殿は、
簡素な陣羽織で座していた。
さくらは、一歩後ろに控える。
桃の匂いは、
今日はいつもよりやや薄かった。
使者は馬を降り、
静かに膝をついた。
「関東一円と、
東北の諸国の盟主たるつもりでおった愚か者が」
「ついに、
天下の流れを悟りました」
言葉は柔らかいが、
声の芯は折れていない。
「この巨城は、
殿の御意のままに」
「ただ、
城下の民の命ばかりはお救い下されたい」
◆
殿は、
しばらく何も言わなかった。
巨城。
包囲。
市の明かり。
東北の旗。
これまで歩いてきた道のすべてが
静かに目の前に収束している瞬間だった。
やがて、
殿は短く頷いた。
「わしは、城が欲しいのではない」
「この世をひとつにしたいだけだ」
使者が頭を下げる。
「民の命は、
殿の“世”の中で
生かされると受け取ってよろしいか」
「そういうことだ」
殿の声は、淡々としていた。
勝ち誇る色も、
責め立てる色もない。
ただ、
長い戦の終わりを受け止める声。
◆
その場に立ち会っていたさくらは、
静かに息を吐いた。
(終わりましたね)
西の海。
北の山。
都と寺。
魔王と呼ばれた男の世。
そのすべてを経て、
(残っていた最後の“外側”が
とうとう内側に入る)
巨城の石垣は、
明日も変わらずそこにあるだろう。
けれど、その意味だけが
今日、この瞬間に変わった。
◆
陣に戻る途中、
さくらは自分の腹に
そっと手を添えた。
まだ、
何も確かなものはない。
それでも――
(この世が一つに近づいたのなら)
(わたくしの刃も、
どこかで静かに
置かれる日が来るのでしょうか)
そんなことを思いながら、
うっかり口元がまた緩んでしまう。
通りすがった若い兵が
こっそり囁いた。
「……また腹さすって笑ってるぞ」
「鬼娘様、
最近ほんとに機嫌がいいな」
「天下が近いからだろうさ」
彼らは、
それ以上深くは考えなかった。
◆
その夜。
包囲陣は、
久しぶりに「戦の外」のような
静けさと安堵に満ちていた。
笑い声。
泣き声。
空を見上げる者。
さくらは少し離れた場所で、
巨城の影をじっと見つめていた。
(殿の世は、
これでほぼ満ちました)
(では――)
(この先のわたくしの人生は、
どこへ向かうのでしょうね)
答えはまだ、
誰も知らない。
ただ、
桃の匂いだけが
今までで一番柔らかく、
あたたかく夜の空気に溶けていった。




