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夜は、

いつもより静かだった。



陣の灯りがところどころで揺れている。


兵の笑い声も、

酒の匂いも、

今日はどこか遠かった。


さくらは、自分の手のひらを見ていた。


刀の柄を握り続けてきた掌。

節は固くなっているのに、

肌そのものはまだ張りがある。


(……不思議なものですね)


長年、戦場の砂塵に晒されてきた。

何日も水浴びすらできない遠征も

一度や二度ではない。


血の匂いと、汗の匂いと、煙。

それでも――


髪は、

相変わらず艶を保っている。


肌も、

年相応どころか二十は若く見えると

時折、女たちに羨ましがられる。


「戦にばかり出ておりますのに」と。



(女の強さ、などと

 言われたこともありましたね)


自嘲気味に笑う。


強さの矛先は、

ずっと「外」に向いていた。


敵へ。

刃へ。

殿の世の行く末へ。


(……私はこのまま)


(男を知らぬまま、

 朽ちて行くのでしょうか)


心の奥で、

ぽつりと生まれてしまった言葉を、

自分で持て余す。



陣中を歩けば、

若い兵同士が肩を並べて

将来の話をしている。


「落ち着いたら、

 村に帰って嫁をもらうんだ」


「俺は、都の娘がいいな」


馬小屋の陰では、

手を取り合っている影が見えた。


さくらは、わざと目を逸らす。


(わたくしは、

 何を見ないふりをしているのでしょう)


刃の道を選んだ。

戦を知る女になった。


それでも――


(我が子を抱いてみたい)


(男を知ってみたい)


その想いは、

陣中の夜を重ねるごとに

少しずつ、しかし確かに増していく。



「……殿」


口の中で、

名前を転がしてみる。


かつて「猿」と呼ばれていた男。


今は天下の大きな部分を預かる人。

自分がこの世で最も

仕えるに値すると決めた人。


(殿は……)


(女としてのわたくしを

 どう見ているのでしょうね)


考えたことのない問いだった。


ずっと「刃」として見てきた。

「鬼」として呼ばれてきた。


「女」として見られたことを

求めなかったのも、

自分自身だ。



もう一度、

小さく呼んでみる。


「……殿」


返事は、当然ない。


ここは自分の寝所。

幕一枚隔てた向こうにいるはずもない。


それでも、

名前を呼んだだけで胸が痛んだ。


(わたくしは、

 何を望もうとしているのでしょう)


殿には妻がいる。

妹君もいる。

家も、跡もある。


自分は、

戦場で大太刀を振るう鬼娘。


踏み越えてはならぬ線を、

誰よりもよく知っているのは

さくら自身だった。



幕の外から、

夜回りの足音がした。


「鬼娘殿、

 今夜も見回りを?」


声をかけられ、

さくらはいつもの顔に戻る。


「いいえ。

 今夜はもう、刃は休ませます」


「そうでございますか」


去っていく足音。


幕の中に、

再び静けさが戻る。



(……我が子を抱いてみたい)


(男を知ってみたい)


その願いは、

消えない。


けれど、

今はまだ


(この身を縛っている刃を

 捨てる覚悟もまた、

 持ち合わせてはいないのです)


矛盾したままの想いが、

胸の中で行き場をなくして渦を巻く。



さくらは、

ゆっくりと横になった。


目を閉じれば、

浮かぶのは戦場と

殿の横顔ばかり。


「……殿」


三度目は、

声にならなかった。


唇だけが、

静かにその名を形作る。


陣中の夜は、

相変わらず静かだった。


ただ一人、

鬼娘の胸の内だけが


戦場とは別の熱で

静かに、じわりと

火を帯び始めていた。



殿は、いつものように机に肘をつき、

片手に酒。

もう片手で、地図の端を指先でなぞっていた。


囲まれた巨城。

その外に重なる幾重もの陣。

さらに外を取り巻く、東北の旗。


(ここまで来たか)


そんなことを、

酒と一緒に喉の奥へ流し込もうとしていたとき――


「……殿」


聞き慣れた声がした。



何の用だろうか。

そう思って顔を上げかけた殿は、

いつもの軽口を用意しかけて、

そこで言葉を失った。


そこに立っていたのは、

いつもの鎧姿ではない、さくらだった。


薄布一枚。

輪郭を隠すにはあまりに心許ない衣。

頬は上気し、

視線はまっすぐこちらを見ているのに、

ほんのわずか揺れていた。


桃の匂いが、

狭い室内に一気に満ちる。


戦場で嗅ぎ慣れた、あの匂い。

しかし今夜は、

血や汗と混ざっていない、生の香りだった。



(……さくら)


好色な殿が、

あえて女としてではなく

「刃」としてだけ見てきた女。


鎧姿。

大太刀。

背中。

戦場のシルエット。


思い浮かぶのは、

そういう姿ばかりだった。


それが今、

布一枚で灯の下に立っている。


「……私の口から、

 言わせないでください」


さくらは、

そう言ったきり口をつぐんだ。


言葉の足りなさが、

かえって全てを物語っていた。


――今夜だけは。

――妻や妹君や、世の目を忘れてほしい。


そんな顔。



殿は、一度だけ目を閉じた。


(据え膳食わぬは男の恥)


戦国の世に生きる男として、

あまりにも馴染んだ言葉が

自然と頭に浮かぶ。


だが同時に、

別の言葉も浮かんだ。


(……刃を、鈍らせはせぬか)


戦場で、何度も救われてきた大太刀。

鬼娘の桃の匂い。


その「刃」に手を伸ばすということは、

ただ女を抱くということではない。


自分の世の、

要の一本に触れることでもある。



「さくら」


殿は、ひとまず酒を置いた。


「座れ」


声は、いつものように軽く聞こえたかもしれない。

だが、

自分の喉が僅かに乾いていることに

殿自身は気づいていた。


さくらは、

一歩だけ近づいて座る。


距離は、いつもの軍議よりも近く、

しかし触れるにはまだ遠い。


桃の匂いと、

冷えた夜気が混ざる。



しばらく、

何も言葉が出なかった。


先に口を開いたのは、さくらだった。


「……殿」


「わたくしは、このまま」


少しだけ視線を落とす。


「男を知らぬまま、

 朽ちていくのでしょうか」


掠れた声だった。



殿は、

何度か唇を開きかけては閉じた。


「刃としては、

 何一つ不足はない女が」


「女としては、

 不足ばかりだと申すのか」


冗談めかした言い方だったが、

笑いにはならなかった。


さくらは、

かすかに首を振る。


「不足……というより」


言葉を探すように、

指先が膝の上で丸くなった。


「怖いのです」


「このまま、

 誰の手も知らず」


「誰の子も抱かず」


「殿の世のどこかで、

 いつかぽきりと折れて」


「ただ、“鬼娘がいた”と

 語られて終わるのが」



殿は、

まっすぐさくらを見た。


戦場では何度も見てきた瞳。

斬る前の瞳。

斬ったあとの瞳。


今夜のそれは、

どちらにも似ていなかった。


「わしは、

 そなたを刃として見ておった」


正直に言う。


「好色な男が、

 あえて女として見ぬようにしておった」


「それが世のためであり、

 殿の世のためであり」


「そなたのためでもあると思ってな」


さくらは、

黙って聞いていた。


否定もしない。

肯定もしない。


ただ、その言葉を

全部受け取るように。



沈黙が、

少し長くなった。


その沈黙の中で、

さくらの肩が微かに震えるのを

殿は見逃さなかった。


(戦場では、

 一度も背を見せなかった女が)


(今、ここで)


(ようやく背中を見せようとしている)


そう思ったとき。


殿は、

ふっと力を抜いた。



「……世は、

 そう長くは続かぬかもしれん」


ぽつりと呟く。


「わしの世も、

 そなたの刃も」


「いずれ、どこかで終わりを迎える」


さくらは、

静かに頷いた。


それは、

ずっと覚悟してきたことだ。


「それでも」


殿は杯を横へ押しやると、

立ち上がった。


「今夜くらいは」


さくらの前まで歩み寄る。


「鬼娘ではなく、“さくら”として

 ここにおってもよいだろう」



手が伸びる。


粗い戦場の手。

しかし、

その指先は意外なほど静かだった。


殿は、

自分の羽織を脱いで

さくらの肩にそっとかけた。


薄布一枚の上に、

重みが落ちる。


「わしは殿だ」


小さく笑う。


「だが、今夜ばかりは」


「一人の男として、

 そなたの望みから逃げぬことにする」


さくらは、

その言葉を聞いて


やっと、

長く押し殺していた息を吐いた。


頬の赤みが、

静かに広がっていく。



灯が、一つ落とされた。


外の見張りは、

ただ「殿の部屋の灯が少しだけ暗くなった」と

思っただけだった。


その夜、

戦の外のような静かな陣の中で、


鬼娘は初めて

刃ではなく、“女”として

誰かの胸に身を預けた。


細かいことを語る者は、

誰もいない。


ただ翌朝――

さくらがいつも通り鎧を着て陣に立ったとき、


彼女の横顔を見た何人かが

言葉にできない何かの変化を感じた。


刃の冴えはそのままに。

どこか、

芯の奥に柔らかな影を宿した鬼娘が、


今日もまた、

殿の世のために大太刀を背負って立っていた。

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