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夜は、
いつもより静かだった。
◆
陣の灯りがところどころで揺れている。
兵の笑い声も、
酒の匂いも、
今日はどこか遠かった。
さくらは、自分の手のひらを見ていた。
刀の柄を握り続けてきた掌。
節は固くなっているのに、
肌そのものはまだ張りがある。
(……不思議なものですね)
長年、戦場の砂塵に晒されてきた。
何日も水浴びすらできない遠征も
一度や二度ではない。
血の匂いと、汗の匂いと、煙。
それでも――
髪は、
相変わらず艶を保っている。
肌も、
年相応どころか二十は若く見えると
時折、女たちに羨ましがられる。
「戦にばかり出ておりますのに」と。
◆
(女の強さ、などと
言われたこともありましたね)
自嘲気味に笑う。
強さの矛先は、
ずっと「外」に向いていた。
敵へ。
刃へ。
殿の世の行く末へ。
(……私はこのまま)
(男を知らぬまま、
朽ちて行くのでしょうか)
心の奥で、
ぽつりと生まれてしまった言葉を、
自分で持て余す。
◆
陣中を歩けば、
若い兵同士が肩を並べて
将来の話をしている。
「落ち着いたら、
村に帰って嫁をもらうんだ」
「俺は、都の娘がいいな」
馬小屋の陰では、
手を取り合っている影が見えた。
さくらは、わざと目を逸らす。
(わたくしは、
何を見ないふりをしているのでしょう)
刃の道を選んだ。
戦を知る女になった。
それでも――
(我が子を抱いてみたい)
(男を知ってみたい)
その想いは、
陣中の夜を重ねるごとに
少しずつ、しかし確かに増していく。
◆
「……殿」
口の中で、
名前を転がしてみる。
かつて「猿」と呼ばれていた男。
今は天下の大きな部分を預かる人。
自分がこの世で最も
仕えるに値すると決めた人。
(殿は……)
(女としてのわたくしを
どう見ているのでしょうね)
考えたことのない問いだった。
ずっと「刃」として見てきた。
「鬼」として呼ばれてきた。
「女」として見られたことを
求めなかったのも、
自分自身だ。
◆
もう一度、
小さく呼んでみる。
「……殿」
返事は、当然ない。
ここは自分の寝所。
幕一枚隔てた向こうにいるはずもない。
それでも、
名前を呼んだだけで胸が痛んだ。
(わたくしは、
何を望もうとしているのでしょう)
殿には妻がいる。
妹君もいる。
家も、跡もある。
自分は、
戦場で大太刀を振るう鬼娘。
踏み越えてはならぬ線を、
誰よりもよく知っているのは
さくら自身だった。
◆
幕の外から、
夜回りの足音がした。
「鬼娘殿、
今夜も見回りを?」
声をかけられ、
さくらはいつもの顔に戻る。
「いいえ。
今夜はもう、刃は休ませます」
「そうでございますか」
去っていく足音。
幕の中に、
再び静けさが戻る。
◆
(……我が子を抱いてみたい)
(男を知ってみたい)
その願いは、
消えない。
けれど、
今はまだ
(この身を縛っている刃を
捨てる覚悟もまた、
持ち合わせてはいないのです)
矛盾したままの想いが、
胸の中で行き場をなくして渦を巻く。
◆
さくらは、
ゆっくりと横になった。
目を閉じれば、
浮かぶのは戦場と
殿の横顔ばかり。
「……殿」
三度目は、
声にならなかった。
唇だけが、
静かにその名を形作る。
陣中の夜は、
相変わらず静かだった。
ただ一人、
鬼娘の胸の内だけが
戦場とは別の熱で
静かに、じわりと
火を帯び始めていた。
◆
殿は、いつものように机に肘をつき、
片手に酒。
もう片手で、地図の端を指先でなぞっていた。
囲まれた巨城。
その外に重なる幾重もの陣。
さらに外を取り巻く、東北の旗。
(ここまで来たか)
そんなことを、
酒と一緒に喉の奥へ流し込もうとしていたとき――
「……殿」
聞き慣れた声がした。
◆
何の用だろうか。
そう思って顔を上げかけた殿は、
いつもの軽口を用意しかけて、
そこで言葉を失った。
そこに立っていたのは、
いつもの鎧姿ではない、さくらだった。
薄布一枚。
輪郭を隠すにはあまりに心許ない衣。
頬は上気し、
視線はまっすぐこちらを見ているのに、
ほんのわずか揺れていた。
桃の匂いが、
狭い室内に一気に満ちる。
戦場で嗅ぎ慣れた、あの匂い。
しかし今夜は、
血や汗と混ざっていない、生の香りだった。
◆
(……さくら)
好色な殿が、
あえて女としてではなく
「刃」としてだけ見てきた女。
鎧姿。
大太刀。
背中。
戦場のシルエット。
思い浮かぶのは、
そういう姿ばかりだった。
それが今、
布一枚で灯の下に立っている。
「……私の口から、
言わせないでください」
さくらは、
そう言ったきり口をつぐんだ。
言葉の足りなさが、
かえって全てを物語っていた。
――今夜だけは。
――妻や妹君や、世の目を忘れてほしい。
そんな顔。
◆
殿は、一度だけ目を閉じた。
(据え膳食わぬは男の恥)
戦国の世に生きる男として、
あまりにも馴染んだ言葉が
自然と頭に浮かぶ。
だが同時に、
別の言葉も浮かんだ。
(……刃を、鈍らせはせぬか)
戦場で、何度も救われてきた大太刀。
鬼娘の桃の匂い。
その「刃」に手を伸ばすということは、
ただ女を抱くということではない。
自分の世の、
要の一本に触れることでもある。
◆
「さくら」
殿は、ひとまず酒を置いた。
「座れ」
声は、いつものように軽く聞こえたかもしれない。
だが、
自分の喉が僅かに乾いていることに
殿自身は気づいていた。
さくらは、
一歩だけ近づいて座る。
距離は、いつもの軍議よりも近く、
しかし触れるにはまだ遠い。
桃の匂いと、
冷えた夜気が混ざる。
◆
しばらく、
何も言葉が出なかった。
先に口を開いたのは、さくらだった。
「……殿」
「わたくしは、このまま」
少しだけ視線を落とす。
「男を知らぬまま、
朽ちていくのでしょうか」
掠れた声だった。
◆
殿は、
何度か唇を開きかけては閉じた。
「刃としては、
何一つ不足はない女が」
「女としては、
不足ばかりだと申すのか」
冗談めかした言い方だったが、
笑いにはならなかった。
さくらは、
かすかに首を振る。
「不足……というより」
言葉を探すように、
指先が膝の上で丸くなった。
「怖いのです」
「このまま、
誰の手も知らず」
「誰の子も抱かず」
「殿の世のどこかで、
いつかぽきりと折れて」
「ただ、“鬼娘がいた”と
語られて終わるのが」
◆
殿は、
まっすぐさくらを見た。
戦場では何度も見てきた瞳。
斬る前の瞳。
斬ったあとの瞳。
今夜のそれは、
どちらにも似ていなかった。
「わしは、
そなたを刃として見ておった」
正直に言う。
「好色な男が、
あえて女として見ぬようにしておった」
「それが世のためであり、
殿の世のためであり」
「そなたのためでもあると思ってな」
さくらは、
黙って聞いていた。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、その言葉を
全部受け取るように。
◆
沈黙が、
少し長くなった。
その沈黙の中で、
さくらの肩が微かに震えるのを
殿は見逃さなかった。
(戦場では、
一度も背を見せなかった女が)
(今、ここで)
(ようやく背中を見せようとしている)
そう思ったとき。
殿は、
ふっと力を抜いた。
◆
「……世は、
そう長くは続かぬかもしれん」
ぽつりと呟く。
「わしの世も、
そなたの刃も」
「いずれ、どこかで終わりを迎える」
さくらは、
静かに頷いた。
それは、
ずっと覚悟してきたことだ。
「それでも」
殿は杯を横へ押しやると、
立ち上がった。
「今夜くらいは」
さくらの前まで歩み寄る。
「鬼娘ではなく、“さくら”として
ここにおってもよいだろう」
◆
手が伸びる。
粗い戦場の手。
しかし、
その指先は意外なほど静かだった。
殿は、
自分の羽織を脱いで
さくらの肩にそっとかけた。
薄布一枚の上に、
重みが落ちる。
「わしは殿だ」
小さく笑う。
「だが、今夜ばかりは」
「一人の男として、
そなたの望みから逃げぬことにする」
さくらは、
その言葉を聞いて
やっと、
長く押し殺していた息を吐いた。
頬の赤みが、
静かに広がっていく。
◆
灯が、一つ落とされた。
外の見張りは、
ただ「殿の部屋の灯が少しだけ暗くなった」と
思っただけだった。
その夜、
戦の外のような静かな陣の中で、
鬼娘は初めて
刃ではなく、“女”として
誰かの胸に身を預けた。
細かいことを語る者は、
誰もいない。
ただ翌朝――
さくらがいつも通り鎧を着て陣に立ったとき、
彼女の横顔を見た何人かが
言葉にできない何かの変化を感じた。
刃の冴えはそのままに。
どこか、
芯の奥に柔らかな影を宿した鬼娘が、
今日もまた、
殿の世のために大太刀を背負って立っていた。




