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東北の風が、
平野に降りてきていた。
◆
殿は、巨城を囲むだけでは終わらせなかった。
城から見れば、
敵は一つであればまだ分かりやすい。
「落とすか、落ちるか」の話で済む。
だが殿は、
その「分かりやすさ」すら奪いにいった。
東北の諸勢力に、
同じ文が送られた。
――わしと共に城を囲むか。
それとも、この城が落ちたあとに
攻め滅ぼされるか、選べ。
短い文だった。
脅しというより、
事実の並べ方に近い。
◆
北の山々では、
小さな評定がいくつも開かれていた。
雪深い谷。
風の強い岬。
川沿いの小国。
「殿の世、か」
「都も、西も、島も
あの者の色に染まったと聞く」
「関東の平野に、
あれだけの城がありながら」
「それでもなお、
囲まれているのはこちら側だ」
「東北の山に籠もれば、
逃げ切れると思うか」
「……思わんな」
沈黙のあと、
誰かがぽつりと呟く。
「ならば、
選べるうちに選ぶしかあるまい」
◆
やがて、
巨城を囲む陣の下に
続々と東北の軍勢が現れ始めた。
旗の色は揃っていない。
馬の毛並みも、鎧もばらばらだ。
それでも皆、
殿の陣に入る前に
一度だけ巨城を見上げた。
(あれが、
わしらの「先に倒れるべき壁」か)
(あれのあとに、
自分たちの番が来るのか)
そんな複雑な目。
殿の側から見れば、
味方の数が増えていく光景。
巨城の側から見れば、
周囲の地平が
どんどん「自分以外の天下」に
塗り替えられていく光景。
◆
城の上でも、
ざわめきが起きていた。
物見が報告する。
「北の旗、幾本も」
「山の色、川の色、
見覚えのある紋がいくつも」
「皆、殿の陣に入っていきます」
「我らの味方ではなく、
我らを囲む側の列に」
城主は、
黙って外の景色を見た。
かつて自分のもとに
挨拶に来ていた小さな大名たち。
山の土産を持ち、
酒を酌み交わした男たち。
その旗が今、
自分の城を「外側」から見下ろす列に
加わっている。
(わしは、
いつの間にここまで
外になってしまったのだ)
心のどこかで、
静かな問いが生まれる。
◆
殿の本陣では、
東北の代表たちを交えた評定が行われた。
雪焼けした顔。
粗い言葉。
だが、
その目は驚くほど現実をよく見ている。
「殿」
一人が言う。
「わしらは山に籠もることもできる」
「米を惜しまず蓄えれば、
十年は戦えるやも知れぬ」
「だが、その十年のあいだに」
「都も、西も、南も、島も」
「すべて殿の世になっておるのでしょうな」
殿は、
否定しなかった。
「そうだろうな」
素直に言う。
「だからこそ、
わしはこうして先に声をかけた」
「“今なら、共に囲む側に座れる”とな」
◆
さくらは、
評定の隅でその会話を聞いていた。
東北の男たちの匂いは、
海とは違う冷たさを持っていた。
雪、
湿った木、
焚き火の煙。
彼らの軍勢が
次々と巨城の周囲に並び始めると、
包囲の輪は、
さらに厚く、重くなった。
もはや、
巨城から見える旗のほとんどが
「殿の世」か、
「殿の世に入ることを選んだ者たち」の旗になっていく。
◆
城の中で、
ある老臣が呟いた。
「……この城を落とそうとしているのは」
「もしかすると
あの殿ひとりではないのやもしれぬ」
「“天下”という名の
流れそのものが」
「わしらを、
ここに取り残しておる」
若い武士は、
まだ歯を食いしばっていた。
「出て討つべきです」
「北の奴らなど、
かつては皆、我らの後ろを歩いていた」
老臣は首を振る。
「後ろを歩いていた者たちが、
今は皆“前へ進む側”に立ったのだ」
「わしらだけが、
この城の中で
ただ立ち止まっている」
◆
平野の風景は、
ゆっくりと変わっていく。
殿の軍。
西の兵。
東北の兵。
それぞれの陣が伸び、
市が増え、
道が繋がる。
巨城だけが、
季節が変わっても
同じ場所に、同じ形で
取り残され続けていた。
さくらは、
その姿を遠くから見つめながら
(残された敵は、あと一つ)
という言葉の重さを
改めて感じていた。
刃だけを交える戦ではない。
心と、時と、世の流れそのものを
相手にする戦。
その包囲の輪は、
東北の旗が加わったことで
さらに「天下」の色を
濃くしていった。




