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巨城を囲んだとき、
それは「陣」ではなく、ほとんど新しい国の形をしていた。
◆
殿は、自ら大軍勢を率いて関東の平野に入った。
川を押さえ、
街道を押さえ、
田畑の境目に旗を立てる。
そして、巨城をぐるりと取り囲む位置に
本陣を据えた。
「攻めるぞ」とは言わない。
代わりに、最初の命はそれだった。
「町を作れ」
◆
最初に建てられたのは、市だった。
兵のための市。
だが、それだけでは終わらない。
米。
塩。
味噌。
油。
遠くから商人たちが呼ばれ、
仮設の店を出す。
いつの間にか
「陣の市」は、
周辺の農民たちまで通う市になった。
巨城の上から見ると、
民が城ではなく
敵の陣へ用を足しに行く光景が
はっきりと見えた。
◆
次に建てられたのは、宿だった。
簡易なものから始まり、
やがて二階建ての屋根が並び始める。
兵が休むため。
商人が泊まるため。
役人が詰めるため。
そして、そのうちの何軒かは
いつの間にか「茶屋」と呼ばれるようになり…
さらにその奥まった路地には、
灯りの落ちない一角ができた。
遊郭。
◆
昼は市のざわめき。
夜は笛と笑い声。
巨城の上から見下ろせば、
敵の陣は
「攻め寄せる群れ」ではなく、
年ごとに肥っていく街に見えた。
「……あれが“陣”か」
城の中の誰かが、
思わず漏らした。
「どう見ても、
囲まれているのはこの城の方だ」
◆
殿は、それを承知でやっていた。
城を崩すための戦ではなく、
心を折るための戦。
「何年かかろうとも構わぬ」
その覚悟を、
土と木と瓦で見せつける戦。
陣の中には、
寺も建てられた。
祈る者がいる限り、
ここは「いつでも引き払える仮の場所」ではなくなる。
子どもが生まれ、
年寄りが死に、
墓が立つ。
巨城の上から見えるのは、
日ごとに増えていく「生活の煙」だった。
◆
城内でも、評議が繰り返された。
「打って出るべきだ」
「いや、あの数では
野に出た瞬間に呑まれる」
「籠城すれば、
いずれ飢えるぞ」
「この城は米蔵だ。
簡単には尽きん」
「そういう話ではない」
冷静な者ほど、
声が低かった。
「あいつらは、“待つ”顔をしている」
「今日、明日を見ていない」
「ここを囲んで
町を立て、女を囲い、寺を建て…」
「十年でも二十年でも
変わらぬ顔で囲み続けるつもりだ」
◆
さくらは、
殿の本陣の近くに与えられた屋敷の縁側から
巨城を見ていた。
遠く。
だが、確かにそこにある影。
「……妙な戦ですね」
ぽつりと言う。
「崩すのでもなく、
焼くのでもなく」
「ただ、
“ここにいる”と
言い続ける戦」
桃の匂いは、
戦場より薄かった。
ここは前線ではない。
だが、どの戦よりも
深く骨に沁みる静けさがあった。
◆
陣の市を歩けば、
鬼娘の姿はすぐに分かる。
男たちは、
一瞬目を奪われてから
すぐに視線を逸らす。
今は「戦の最中」ではない。
刃は抜かれていない。
それでも、
彼女が歩いているだけで
どこか城の方角の空気が
少し重くなる気がした。
「……あの城の者たちにも」
さくらは思う。
「この市の賑わいは見えるのですね」
「見たくなくても、
見えてしまう」
兵が市の酒を飲み、
女と笑い、
新しい着物を買い、
子どもが走り回り、
掛け声が飛び交う。
「戦をしているのは
城の中だけだ」と
嘯いているかのような景色。
それが、
巨城の石垣を外側から
じわじわと削っていく。
◆
城内でも、年の流れは止まらない。
籠城のために蓄えた米も、
食えば減る。
矢も、
射ればなくなる。
兵も、
病に倒れ、年老いていく。
「援軍は来ないのか」
「東北の諸勢力は、
こちらを見るだけで動かぬ」
「殿の世が、
あまりにも広がりすぎた」
「この巨城が、
最後の“外側”だ」
その自覚が、
城の内側に
じわりと広がっていく。
◆
殿は、
急がなかった。
城攻めの用意もする。
堀を探り、
弱い門を探し、
兵を入れ替え続ける。
それと同時に、
市を整え、
道を通し、
寺を建て、
遊郭の管理にまで目を配る。
「囲みながら、治める」
「攻めながら、住む」
それは、
殿が歩いてきた戦の集大成でもあった。
◆
さくらの役目は、
即座の「切り札」ではなかった。
今、彼女は
数多ある軍勢の一つの刃として
必要な場所にだけ顔を出す。
出入りの道を見せつけるとき。
城からの小さな打って出を
瞬く間に跳ね返すとき。
「鬼娘は、
まだ刃を抜いていない」
その事実が、
巨城の中で静かな恐怖として
蓄えられていく。
(心を折る戦)
(刃を振るう前から、
もう戦は始まっているのですね)
さくらは、
縁側から見える巨城の影に
静かに目を細めた。
殿の軍勢にとっても、
巨城の守り手たちにとっても、
ここからの年月は
「刃の長さ」ではなく、
「心の持ち」と「覚悟」の戦になる。
何年かかろうとも構わぬ――
その言葉が、
平野に新しい季節が来るたびに
巨城の石と、
人の心とに
少しずつ、静かに沁み込んでいった。




