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西の海が静まった頃には、
地図の余白もだいぶ減っていた。
◆
殿の秩序の中で、
島の男たちの旧来の所領は安堵された。
港。
小さな城。
荒れた畑。
どれも、
「殿の世」の中の一部として
そのまま残された。
海沿いの村々では、
殿の旗と、島の旗が
同じ風に揺れている。
島の男たちは、
戦の中で学んだ通りに
あっさりと現実を飲み込んだ。
――強い秩序の下で生きること。
――その秩序を、今度は自分たちも守り手として支えること。
彼らは、「殿の敵」であることをやめ、
「殿の世の海」を預かる者になっていった。
◆
残された敵は、あと一つだけとなる。
関東をまるごと呑み込む平野。
その要を押さえ、
東北の諸勢力の盟主のような顔をしている巨大な力。
天下一の巨城。
山の上でも、
入り江でもない。
どこまでも続く平地の真ん中に、
石と土と人の知恵を積み上げて作った
異様に大きな城。
それだけが、
未だに殿の旗に背を向けていた。
◆
評定の場。
地図の右側――
関東と呼ばれる一帯に、
大きく墨で囲まれた印がある。
その中心に、
巨城を表すしるしが
ぽつんと記されていた。
「……ここだけが」
殿は、
指先でそこを軽く叩いた。
「いまだに“殿の世”を
自分の外に置いておる」
策士が言う。
「関東を支配し、
東北の諸勢力の顔をしている以上」
「ここを放置して
天下を名乗ることはできませぬ」
別の重臣が続ける。
「山でもなく、海でもなく」
「広い平野に築いた巨城ゆえに、
攻めにくいことこの上なし」
「兵の数も多く、
米蔵も深い」
「籠られれば、
何年とかかりましょう」
◆
さくらは、
少し離れた場所から地図を見ていた。
(山城でもなく)
(谷の砦でもなく)
(“平地の巨城”)
想像するだけで、
その姿は異様だった。
「籠城のためにある城」
「農と兵が、
同じ地平線を見て生きている土地」
そこへ攻め入るということは、
ただ城を崩すだけでなく、
一帯の空気そのものを変えさせることになる。
(ここまで来たのですね、殿)
(島も、北も、西も、都も)
(“残りは一つ”と呼べる日が来るなんて)
心のどこかで、
ふっと笑いたくなるような感覚と、
ここから先の重さを
肌で悟る感覚が同時にあった。
◆
「殿」
策士が静かに問う。
「西も、南も、都も、
帝の裁定もひとまず収まりました」
「残るは、
関東と東北を束ねる巨城のみ」
「ここを攻めるか、
残すか」
「いかがなされます」
殿は、
答えを既に持っている顔をしていた。
ただ、
言葉にするまでの間を
少しだけ味わっているような、そんな目。
「……わしは、
殿の世の“守り役”になったつもりはない」
ぽつりと言う。
「この世のどこかに、
別の天下を名乗る者が残る限り」
「わしが歩いてきた道は
半ばで途切れる」
指が、
巨城の印の上で止まる。
「ここだけを残して
“天下”と呼ぶのは」
「わしの性には合わぬ」
◆
さくらは、
その言葉を静かに聞いていた。
(山をもらい、
都をもらい)
(寺と、川と、海をもらい)
(今度は、
平野の城をもらいにいくのですね)
殿の刃。
鬼娘の大太刀。
両方が、
ここからまた
新しい地平へ踏み出そうとしている。
◆
「ただし」
殿は続けた。
「ここは、
正面から叩き潰すだけの戦では済まぬ」
「関東の平野ごと焼けば、
その辺り一帯が
当分のあいだ死ぬ」
「わしが欲しいのは
焼け野原ではない」
「“この世をひとつにすること”だ」
策士が頷く。
「巨城を落とす戦になりましょう」
「長く、重く、
兵と米と心を磨り減らす戦です」
さくらは、
自分の指先を見つめた。
剣を握る手。
大太刀を支える腕。
(長く、重く)
(“一太刀では終わらない戦”)
鬼娘にとって、
それは今までよりも
遥かに息の長い戦いになる。
◆
評定が終わったあと、
廊下でさくらは小さく空を見上げた。
関東の空は、
まだ見たことがない。
東北の風も、
まだ肌で感じていない。
ただ一つだけ分かるのは、
(あの巨城が、
殿の世の中で“最後の敵”になる)
ということ。
それは、
彼女の鬼としての生にも
ひとつの区切りを
告げる戦になるのだろう。
桃の匂いが、
ふっと薄くなり、
代わりに
冷たい東風の匂いが
まだ遠くから、
かすかに漂ってきている気がした。




